【深読み「鎌倉殿の13人」】源行家が平家に敗れ、義円が討ち死にした墨俣川の戦いとは
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」11回目では、墨俣川の戦いが詳しく描かれていなかった。行家が平家に敗北し、義円が戦死した重要な戦いなので、この点を深く掘り下げてみよう。
■対応を迫られた平家
治承4年(1180)に源頼朝が打倒平家の兵を挙げると、平家は苦戦を強いられた。当初、平家は頼朝らを侮っていたかもしれないが、真剣に対処をせざるを得なくなった。
たとえば、宗盛を五畿内及びその近国の総管とし、東国の敵対勢力への対策とした。また、兵糧米を調達すべく、天皇の宣旨により、平盛俊を丹波国の荘園の総下司とした。この年の前後、日本国内は飢饉で凶作となり、兵糧米の調達が困難になっていたからだ。
治承5年(1181)閏2月5日、平清盛が病死したが、頼朝への対策の手を緩めることはなかった。平家は大規模な軍勢を組織し、東国に追討軍を派遣する計画を立てていたのである。
これを知った安田義定は、ただちに頼朝に対して援軍の要請を行った。頼朝は義定からの報告を受け、和田義盛を援軍として遣わすとともに、美濃にいた行家には、弟の義円を送り込んだ。
行家は頼朝の配下として行動せず、独立した形で三河、尾張、美濃付近で活動をしていた。義円が鎌倉で面会したか否かについては諸説あるが、たしかな史料に記載がないので疑問視されている。
■墨俣川の戦い
同年閏2月15日、平重衡、通盛、維盛、忠度らの率いる軍勢が尾張を目指して進軍した。その数は、約3万と伝わっている。源行家は約5000~6000の軍勢で、墨俣川で重衡の軍勢を迎え撃とうとした。墨俣川は、尾張と美濃の国境に位置していた。
同年3月10日、行家は闇夜に紛れて、平家に奇襲作戦を敢行したが、失敗に終わり平家に敗北した。その際、行家に従った義円ら源氏の面々も枕を並べて討ち死にした。
戦地を離脱した行家は、熱田まで引き下がったが、そこでも平家の軍勢に敗れた。その後、行家は三河の矢作川まで逃走し、そのまま平家に立ち向かうことはなかった。結局、行家は頼朝を頼ろうとしたがうまくいかず、結局は源義仲と合流した。
以後、頼朝は平家との交戦を避け、反乱を起こした同族の志田義広、対抗していた下野の足利俊綱を滅亡に追い込んだ。むしろ、東国の経営に力を注いだのである。
■むすび
行家の敗因は、義円との先陣争いにあったという。行家は戦いの経験が浅い一方で、平家は大軍勢で水軍なども有効に活用したといわれている。その後、平家と源氏は交戦することなく、頼朝の平家討伐が本格化するのは、寿永3年(1184)のことである。