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渡辺元智監督勇退。そこで「厳選・横浜名勝負」 その2

楊順行スポーツライター

1980年8月16日 第62回全国高校野球選手権大会 3回戦

横 浜 000 000 001=1

鳴 門 000 000 000=0

横浜打線は島田茂の重い速球に手を焼き、一方の愛甲猛もカーブを効果的に使い、得点を許さない。鳴門は8回一死一、二塁のチャンスに栗橋秀樹がヒット性の当たりを放ったが、二塁手・安西健二の美技に阻まれた。9回横浜は、その安西が三塁打を放つと、相手のエラーもあってイッキに本塁へ。これが決勝点となった。

渡辺元智監督2回目の甲子園は、初出場優勝の翌年。永川英植が3年になった74年のセンバツだが、このときは2回戦、延長12回で高知に敗れた。このころの神奈川には、東海大相模に原貢、桐蔭学園に奇本芳雄、横浜商に古屋文雄……という名将がいて、これら以上の練習をしなくては勝てない、とがむしゃらに練習したが、その後甲子園が遠い。

周囲は、73年の優勝校という目で見る。渡辺は「スパルタでいいじゃないか」と思いつつ、一方ではもうひとつ壁を破れない限界を感じていた。自分が変わらなければいけない、もっと勉強しなくては……と、教員免許取得の勉強を始めたのはこのころだ。76年に免許を取得し、または横浜の百人の会という団体で、異業種や別のスポーツの指導者と交流した。これが大きな財産となり、78年夏、甲子園出場を遂げる。愛甲が入学した年である。

「愛甲は、天才ピッチャーでした。5季連続出場も夢じゃないと思った。実際、1年夏の神奈川県大会では、準々決勝(対柏陽)でノーヒット・ノーランをやっていますし、甲子園でも徳島商に11三振の2失点ですから。

ところが……甲子園から帰って新チームがスタートし、秋の大会が終わったあと、愛甲が練習に出てこなくなったんです。寮からも姿を消した。1年生から活躍し、マスコミに騒がれて自分を見失い、上級生からのやっかみもあったんでしょう。愛甲の家は逗子なんですが、何回か迎えに行ったり、説得もしました。ところが、気持ちは変わらない。もう手は尽くしたのでしょうがない、と一時はあきらめたんです。

そうしたら、これはもう時効でしょうが(笑)、警察に補導されたかなにかで、私が愛甲を迎えに行ったんです。それをきっかけに、我が家で預かることにしました。愛甲の場合家庭環境が複雑で、ご両親が離婚し、お兄さんは足に障害があるなか、お母さんが保険の外交をなさって女手ひとつで育てていた。食事の支度が満足にできない日もあれば、愛情に飢えていた面もあると思います。それで、2月か3月だったと思いますが、家に引き取りました。

私自身戦中の44年生まれで、家が貧しかったこともあり、戦後のどさくさ期にはおじの家で暮らしたこともある。そこで受けた思いやりは、ひじょうにうれしかった。ですから女房(紀子さん)には、心ばかりの手料理を作ってもらい、また愛甲一人では心細いだろうと思い、同学年でやはり1年からレギュラーだった安西もいっしょに住まわせ、なんとか心を開かせようとしたんです。そこからですね、愛甲が練習に戻ってきたのは」

甲子園では、ビッグプレーで流れが変わる

スパルタからの脱却を図っていた渡辺だが、このころもまだ、鉄拳が指導の一環にあった。ただ、やみくもに厳しいだけじゃない。この愛甲のように、徹底して面倒も見た。練習したい選手には11時、12時までマンツーマンでつき合う。当時は狭い校庭での練習。照明もなく、暗くなってからは月明かりが頼りだ。あるいは車のライトをつけたり、ボールに石灰をまぶしてノックをしたり。

飛び散る石灰というわずかな情報を頼りに打球を追うため、集中力は養われた。車のライトも、腰が高いままだとまぶしいので、低い捕球姿勢が自然に身につく。いま思えばナンセンスなやり方でも、技術を磨く生活の知恵だった。

日常からそうやって接してきたから、選手たちにもシンパシーが芽生える。渡辺には腹が立つけど、不思議な一体感がある。年齢がさほど離れていなかったせいもあるだろうが、監督と選手にもハートとハートのつき合いがあった。やんちゃな選手でも、自分から直接コミュニケーションをとるようになってきた。厳しさのなかで同じものを目ざしているという連帯感、といってもいい。

「愛甲が逗子だったように、当時は京浜急行沿線の子が多かったんです。本当にワルばっかりで、また家庭的にも恵まれなかったり、不遇な子もたくさんいました。すると、愛甲が母親に楽をさせてあげたいと思ったように、ワルであってもハングリーさやたくましさがあるんです。極端にいえば、野球以外ではのし上がれないくらいのつもりで取り組む子も少なくありません。迫力という点では、なにかと豊かになったいまの子たちとは、比べものになりませんね。

そして次の甲子園は80年の夏、愛甲が3年のとき。鳴門との3回戦で、ひじょうに苦戦したんです。采配がちっともうまくいかない。島田君のシュートに押されて、せっかくチャンスをつくっても盗塁させれば刺されたり、7回にはスクイズを見破られて失敗したり……そうなると選手というのは、疑心暗鬼というのか、監督の顔色をうかがうようになるんですね。

そこでもう"今日はさえていない。オマエたちでやってみろ"といった矢先です。9回一死から安西が、左中間に長打性の当たりを打った。むこうの連携ミスもあって、安西は三塁に達してガッツポーズをしていました。ところが、ショートからサードへの返球がイレギュラーして、サードが大きくはじいたんです。安西に"エラーしてるぞっ! 走れっ"ガッツポーズをしている場合じゃない(笑)。それでホームを駆け抜け、虎の子の1点になりました。

実は安西は、8回裏の一死一、二塁というピンチで、二塁キャンバス寄りのゴロをうまくさばいてくれ、結局ゲッツーで切り抜けた。あれで、流れが変わったのかもしれません。甲子園というのは、ビッグプレーで流れが変わることがままあるんですよ」

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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