関ヶ原合戦後、徳川家康は知行宛行状でなく、口頭で福島正則、黒田長政、山内一豊に知行を与えた
会社などでは社員が昇進すると、辞令書を交付する。これが昇進した証拠となる。それは戦国時代も同じで、知行を与えた証拠が知行宛行状である。しかし、関ヶ原合戦後、徳川家康は知行宛行状でなく口頭で諸大名に知行を与えたので、その辺りを考えてみよう。
徳川家康は豊臣秀頼の存在を憚り、知行宛行状を発給することなく、口頭で諸大名に知行を与えた。しかも、家康は諸大名に意向を聞いたうえで、知行を与えたといわれている。
福島正則は20万石(尾張清須)から49万8千石(安芸広島)へ大幅に加増されたが、家康の独断ではなく、事前に正則の意向を確かめていたという。
家康は配下の本多忠勝と井伊直政を正則に遣わし、安芸・備後の両国を与える旨を伝えた(『慶長年中卜斎記』)。忠勝と直政は正則から不足と思われているのではないかと懸念しつつ伝えると、正則が承諾したので話はまとまったのである。
家康が2人の重臣を使者とし、正則の意向に配慮したことは、重要だったと指摘されている。決して、徳川方の意向だけで、諸大名の知行を決定することはできなかったのだ。
元和9年(1623)8月の黒田長政の遺言状には、次のとおり書かれている(「黒田家文書」)。当初、家康は長政に四国の2ヵ国か、筑前のどちらかを与えようと考えていた。そこで、家康は長政に本多忠勝を使者として派遣し、意向を尋ねたのである。
長政は四国の2ヵ国が良いとしながらも、①天下が治まって家康に歯向かう者がいないので奉公をする時節がないこと、②筑前は中国への渡口なので、中国攻めの先手と考えてほしいこと、という理由を挙げて、筑前を希望したといわれている。
以上は根拠が二次史料や遺言ではあるが、①家康が各大名の意向を尊重したこと、②伝達に際しては重臣を派遣したことは、首肯してよいだろう。
慶長19年(1614)3月2日、徳川秀忠の年寄・本多正信は、土佐山内氏に書状を送った(「土佐山内家文書」)。山内一豊が土佐を拝領した際、榊原康政が取次を担当し、知行宛行状発給されていなかったという。家康の重臣が遣わされ、口頭で伝えられたのである。
主要参考文献
藤井譲治「家康期の領知宛行制」(同『徳川将軍家領知宛行制の研究』思文閣出版、2008年)