<朝ドラ「エール」と史実>「木枯正人のモデル」古賀政男は本当に古関裕而の“ライバル”だったのか
レコード会社と契約した裕一。しかし、なかなかいい作品が生まれません。そのいっぽうで、同期入社の木枯正人はどんどんヒットメーカーに……。これは古関裕而と古賀政男の実話がベースになっています。ふたりとも、ほぼ同時期にコロムビア入りしました。
古関と古賀は、しばしば「ライバル」だったと言われます。しかし、本当にそうだったのでしょうか。というのも、古賀が自伝で意識しているのは、江口夜詩だからです。
「私は容易ならぬ強敵の出現に思わず身がまえた」
江口は、現在ではあまり知られていませんが、海軍軍楽隊出身の作曲家で、ヒット曲をつぎつぎに飛ばし、当時たいへんな売れっ子でした。のちにポリドールからコロムビアに移籍してきたときには、すでにドル箱と言われていた古賀も慌てたといいます。
江口も、古賀を強く意識していました。亡くなる前に医者から「アレルギーは?」と訊かれて、「俺のアレルギーは古賀政男の『丘を越えて』だ。俺はあれを聞くと蕁麻疹がおきる」と答えたエピソードは有名です。
古関の自意識は「クラシック畑」?
古関も、実はあまり古賀に言及していません。古関が言及するのは、もっぱら山田耕筰です。古関にとって、山田は「乗り越えるべき音楽の父」だったのでしょう。戦後に作った「白鳥の歌」に触れたところでは、こんな自負心も見せています。
また、古関は自伝の刊行にさいして編集プロダクションの聞き取りを受けているのですが、そこで名前を挙げて対抗心を見せているのも、クラシック系の團伊玖磨、黛敏郎、芥川也寸志でした。
古関はやはり、「自分はもともとクラシック畑だ」という意識が強かったのではないでしょうか。だからこそ、大衆音楽一筋の古賀は、別のジャンルに映ったのかもしれません。古賀も、遅れてヒットを出した古関には、あまり危機感を覚えなかったようです。
誰をライバル視するか。これは、クリエーターの自意識が垣間見えて、なかなか面白いポイントです。音楽家だけではなく、さまざまなひとの「ライバル」を探してみると、また違った文化史が見えてくるかもしれません。
<参考記事>