ジャーニーマンからカリブの名将へ:元マイナーリーガー、リノ・リベラの物語
この冬の野球シーズンを締めたカリビアン・シリーズ。62回目となる今回はプエルトリコのサンファンで開催され、8年ぶりとなるドミニカの優勝で幕を閉じた。開催地のサンファンでは、地元チーム、カングレヘロス・デ・サントゥルセが出場とあって大いに盛り上がた。とくにライバル対決となったラウンドロビン(予選リーグ)最終戦のプエルトリコ・ドミニカ戦は試合前日にはソールドアウトとなり、収容1万9000人のヒラム・ビソン・スタジアムは熱気に包まれた。大会フォーマットから、同じカードとなった翌日の準決勝も大入りとなったが、プエルトリコの地元での優勝の夢は、8回までリードを保ちながらも、土壇場のドミニカの猛打により打ち砕かれた。ドミニカはその勢いのまま決勝を制し、最多となる通算20回目のカリビアン・チャンピオンの座についた。
チャンピオン・ドミニカを率いたプエルトリコ人ジャーニーマン
優勝したドミニカ代表チーム、トロス・デル・エステは、国内リーグにあって後発の新興球団で、国土の東端にあるリゾート地、ラ・ロマーナを本拠としている。どちらかと言えば不人気のマイナーチームと言っていい。このチームを国内リーグ3度目の優勝に導き、チームとして初のカリブ制覇を成し遂げた水先案内人がプエルトリコ人監督リノ・リベラである。
出場チームの多くの監督がメジャーリーグでのプレー経験をもっているが、彼のプレーヤーとしての最高点は、投手として1シーズンプレーした3Aである。それもリリーフで18試合に登板し、勝ち星はなし、3敗して1セーブを記録したのみである。肘の故障で度々プレーできず、30歳を迎えようとする1997年に新天地を台湾に求めた。三商タイガースというチームで3年間プレーし、ここでローテーションピッチャーとしてようやく働き場所を見つける。計27勝を挙げたこの3年間が彼のキャリアハイと言っていいだろう。ところが、チームが突如解散、リベラは名門チーム、統一ライオンズに移籍するが、ここでも肘の故障が再発する。
彼と知り合ったのは、ちょうど20年前、台湾での4年目のシーズンを終えたウィンターリーグでのことだ。彼はその冬のシーズンをリハビリを兼ねて母国プエルトリコのウィンターリーグチーム、ヒガンテス・デ・カロリーナで送っていた。このリーグは選手とファンの距離が近く、試合中でもフェンスのない内野スタンドに面したブルペンのリリーフ陣は気軽に決して多くはない観客と雑談に応じている。その中でも、ひときわフレンドリーな投手が彼だった。当時彼は統一をリリースされ、夏のシーズンのプレー先がない状態だった。お決まりの「日本でプレーしたいよ」という言葉をこぼしながら、ブルペンでボールを投げ込んでいた。その姿は、まさに世界のプロ野球界の底辺をさまようジャーニーマンのそれだった。
その2年後、2002年春、彼が台湾に戻ったというので、足を運んだ。南部の町、高雄での公式戦。この町の古ぼけた球場は町の少しはずれにあった。試合前、球場正面玄関前の物販テント下の石段に統一ライオンズのユニフォーム姿のリベラが座り込んでいた。そこで売られていた台湾リーグの記録集を眺めている。漢字はほとんどわからないが、時折みられるローマ字を頼りに自分の記録を調べているんだと笑った。試合前に球場前の売店にユニフォーム姿の選手がいるなどということは、さすがに現在の台湾リーグでもみることはないが、ラティーノの彼にとってそういうことは、別段気にするようなことでもないようだった。
彼を見かけた台湾人のファンが、「おーい利多(彼の台湾での登録名),こんなところで何をしているんだ。今日の先発投手は誰なんだい?」を尋ねると、「俺だよ」と彼は返した。
冗談かと思ったが、試合が始まると、先発マウンドには彼の姿があった。「試合前はリラックス、プレイボールがコールされれば、スイッチを入れるんだ」と言っていた彼だが、初回から乱調気味で、度々マウンド上のプレートを蹴っていた。しまいには、審判団に何やら抗議し、試合が中断されて、グランドキーパーがマウンド上でプレートをはめなおすことになった。それでも彼のピッチングは立てなおることなく早々にマウンドを降りることになった。
「あれはプロが使うマウンドじゃない」
試合後、普段使っているホーム球場でないグラウンドを使用していたことに腹を立てていたその姿は、よくある「ダメ外人」のそれだった。
ジャーニーマンからラテンアメリカの名将へ
結局彼は、このシーズン早々にクビを切られ、メキシカンリーグでキャリアの終盤を送ることになった。メキシコでは先発投手として活躍したものの、2003年シーズン限りで引退し、そのまま最後のチーム、アセレロス・デ・モンクローバで指導者となった。2004年、成績不振で監督が退団すると、その空席を埋めることになったが、翌シーズンには今度は自分がその憂き目にあう。しかし、捨てる神あれば拾う神あり、リベラは、逆に監督が解任されたレオーネス・デ・ユカタンの監督を引き受けることになる。
そして、2006年シーズン、プレーオフ圏内ギリギリの地区4位から「下剋上」を演じチームを22年ぶりのチャンピオンに導くと、ここから彼はラテンアメリカの名将への道を歩み始める。2009年冬にはメキシコのウィンターリーグからも声がかかり、日本人メジャーリーガー、マック鈴木の在籍していたアルゴドネロス・デ・グアサーベの指揮を執った。この時もチームが不振で途中解任となったが、母国プエルトリコのクリオージョス・デ・カグアスから声がかかり、途中解任された元メジャーリーガー、カリメロ・マルチネス(元オリックス)に代わり指揮をとった。この時見た彼は、台湾でマウンドを蹴り上げていた現役時代の姿とは別人だった。荒れた試合で、選手、コーチがエキサイトする中、彼らを必死でなだめている彼の姿がフィールドにはあった。
ずいぶんと偉くなったが、気さくさは相変わらずで、カグアスでの試合では、30キロほどのサンファンまで車に乗せてくれた。
地元開催の母国を破って頂点へ
夏はメキシコ、冬はウィンターリーグを往復するようになった彼は、やがてカリブの雄、ドミニカからも声がかかるようになり、2015-16年シーズンは名門ティグレス・デ・リセイの指揮を執った。そして、2017-18年にはアギラス・デル・シバオの監督としてリーグ制覇を成し遂げ、ついにカリビアンシリーズの舞台に立った。この時は、かつて自ら指揮した母国プエルトリコのカグアスに決勝で敗れ、頂点には立てなかった。その意味では、今回のシリーズは彼にとってリベンジマッチということになる。しかし、今回のシリーズは母国での地元開催。やりやすくはなかっただろう。地元優勝へと盛り上がる母国を準決勝で破っただけに、優勝へのプレッシャーは相当なものがあったのか、決勝戦終了後のテレビインタビューでは人目をはばかることなく大粒の涙をこぼした。
準決勝は土壇場での逆転勝ち、決勝は緊迫した投手戦から少しずつ得点を重ね最終9回に打線が爆発して、追いすがるベネズエラに引導を渡した。メジャー球団と契約を結んだ選手には、起用に制限がかかる中、持ち駒をうまく使い、リベラはついにラテンアメリカ球界の頂点に立った。現役時代に功成り名遂げた者が監督に着くのが定番のアジアとは違い、南北アメリカ大陸では選手時代の実績は指導者の資質とは別として考えられることが多いが、それでも、3Aを少しかじった程度のジャーニーマンが、ラテンアメリカ各国の監督を歴任し、歴史あるカリビアンシリーズの優勝監督になるという例はまれなことだろう。
日本では、先に逝去した故・野村克也氏に代表されるように、監督には捕手、内野手出身者が向いていると言われることが多いが、リベラは投手出身の監督として、押しも押されぬ名将となった。彼の采配ぶりをみていると実に選手に対する気遣いが細やかである。熱くなりがちなラテン系の選手を常にクールダウンさせることに努め、選手を責めることは絶対にない。マウンドで火だるまになった投手にも交代の際必ずマウンドまで行き、尻を軽くたたいてねぎらいの言葉をかける。その人柄が、選手の心をつかむのだろう。10数年ぶりに顔を合わせた私に対しても、試合前の取材攻勢の中、歩み寄り挨拶してくれた。
その試合前の緊張の中、彼の顔がほころんだ瞬間があった。ベンチにいた4,5歳の子供を抱きかかえた瞬間だけ、彼は優しき父親の顔になった。
しかし、ちょっと待てよ。10年前、車に乗せてもらった時も、同じような年頃の子供が乗っていたっけ。そもそも、彼はもう54歳。目の前の子供は孫と言っていい年頃だ。しかし、その子供は「パピー」と言いながらリベラにじゃれついている。
まあ、確かにこれだけ人心掌握術に長けた男なら、女性を口説くのもなんことはないのだろう。
(写真は筆者撮影)