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平日昼間に開かれる「森の教室」に子どもたちが集まるワケ

おおたとしまさ育児・教育ジャーナリスト
森の教室の開催地は、天候によって毎回変わる(2020年10月筆者撮影)

初参加の保護者の感想は「え、これだけ?」

「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわす。(中略)まさしくここは子供の楽園だ」。真冬の川原ではしゃぐ子どもたちを見て私が思い出したのは、幕末の日本にやって来たイギリス公使ラザフォード・オールコックの描写である*1。

東京都あきる野市の川原で、知る人ぞ知るカリスマ教師「イモニイ」こと井本陽久さんが主宰する私塾「いもいも」の「森の教室」が開かれていた。「教室」という呼称は誤解を招くかもしれない。イモニイが何かを教えてくれるわけではないからだ。なんとなく集まってみんなでわいわい騒いで、なんとなく解散する。

はじまりの挨拶も、注意事項も、タイムテーブルも、プロジェクトもない。川に飛び込む子もいれば、魚を探す子もいれば、たき火で遊ぶ子もいる。傍目には、仲のいい子どもたちが思い思いに楽しく遊んでいるだけに見える。初参加の家族が何組かあったが、何人かの保護者は、しばらくキツネにつままれたような顔をしていた。「え、これだけ?」。

しかし実は初対面の子ども同士も多いし、不登校の子どもも多いと聞くと見方が変わる。決してそうは見えないのだ。何か奇跡的なことが起きているとしか考えられない。

大人たちは一切の指図をしない。なかなか火がつけられなくても、竹がうまく切れなくても、求められない限り手出しもしない。足を滑らせれば怪我をするであろう崖に子どもたちが登っても、まわりの大人は何も言わない。実際、足を滑らせて意図せず川にドボンする子どももいる。子どもも大人もみんな笑う。落ちた子も、つられて笑う。いもいもでは、失敗は「おいしい」。

付き添いの保護者のほかに、ボランティアとして1人で参加する保護者もいる。人気のボランティアスタッフは、「ババア」呼ばわりされたりもする。悪い言葉遣いはその場で正さなければいけないと思い込んでいる大人はびっくりするかもしれないが、いもいもでは、本人を含めて誰も気にしない。

ただし、たまに誰かの心に感情の乱れが生じたときには、子ども同士ですっとすり寄って、慰めの言葉をかけるでもなく、わだかまりをあっという間に解消していく様子が自然に見られる。大人の出番はほとんどない。

モンテッソーリ教育との共通点

「それしちゃダメ!」「そこはアブナイ!」などと大人がいちいち言わなくていいように、本当に危険な事故が起こらないような場所を、いもいものスタッフが入念に選んでいる。その発想はモンテッソーリ教育に似ている。

いちいち小言を言わなくていい環境を整えたうえで子どもに最大限の自由を与えると、大人が働きかけなくても子どもは自らを教育し始めるとモンテッソーリは考えた。逆に、子どもがやる気をなくしたり、問題行動を起こしたりするのは、環境のどこかに原因があるからだととらえる。

また、モンテッソーリ教育では教室の中に用意された教具が子どもたちの興味関心を引きつけるようにできているが、森の教室では自然の中にあるあらゆるものが子どもたちの自発性を刺激するという点も似ている。

子どもたちは無意識のうちに、大小さまざまな石ころを川に投げ入れてその音や波紋を比べたり、落ち葉を集めてきてたき火の中に投げ入れて煙の立ち方や匂いの変化を感じたりしている。しかもそれを飽きることなく、延々とくり返す。モンテッソーリ教育用語ではこれを「集中現象」という。子どもが集中現象のなかにいたら、邪魔してはいけない。

「いもいも」の空気を知らない大人が突然そこに入ったら、夢中になって川に石を投げ入れている子どもを見て退屈しているのだと勘違いして、「こっちでいっしょに遊ぼう」と誘ってしまうかもしれない。うまく竹を切ることができずに試行錯誤している子どもに、求められてもいないのに「正しいやり方」を指導してしまうかもしれない。

でも、いもいもの空気の中にいると、そんなことしなくていいんだということが自然にわかってくる。イモニイと同じような泰然自若としたスタンスで子どもを見守れるようになっていく。初めて森の教室に参加して、「え、これだけ?」と思った保護者も、何度か参加するうちに、子どもたちの内面で起きていることを理解できるようになってくる。子どもを見る目が肥えるのだ。

アウトドア好きな親なら、自前でわが子に自然体験をさせてやることもできるだろう。しかし森の教室には幅広い年齢層の友達がたくさんいて、さらに幅広い年齢層の威張らない大人たちがいる。実際、森の教室での大人と子どものやりとりを見ていると、誰と誰が本当の親子なのか、きょうだいなのか、区別がつかない。このような空気は、親子だけではなかなかつくれない。

アウトドア教室は幼児わいせつ!?

夏休みなどに子どもを大自然の中に連れて行く教育活動はさまざまある。テントを張って寝泊まりしたり、飯盒炊爨したり、釣りをしたり、木登りをしたり、さまざまなワイルドな「プログラム」を体験できる。

それらが学校では得られない経験を子どもたちに与えてくれることは確かだし、そういう体験をしてくると子どもたちも多くの場合、たくましくなって帰ってくることは間違いない。

しかし大人が意図した「プログラム」が用意された自然の中に子どもたちを「ゲスト」として招き入れることに、どれだけの意味があるのだろうと、私は長年かすかな疑問を感じていた。

以前、そのかすかな疑問に、ずばり答えてくれたのが、絵本作家の五味太郎さんだった。拙著『続・子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?』でのインタビュー記事から、核心を突く言葉を引く。

「本当に下品だと思うのは、キャンプに行って森に入っていって、たとえば昆虫に興味を持ってほしいみたいな発想。海辺に行って海の生物に関心を持ってほしいとか。そこで興味や関心を示さないと、そういう大人は怒るんだよね。はっきり言ってこれ、幼児わいせつみたいでしょう。『ちょっとおいで。おじちゃんがいいこと教えてあげようか』みたいな。子どもが望んでいるわけでもないのに大人の満足に子どもを付き合わせているという点で、同じでしょ」

せっかく自然の中に連れて行ったのに子どもが期待したとおりの活動をしないと、つい「いまの子どもたちは元気がない……」などと嘆いてしまう大人も少なくない。でも私の感覚ではそんなの、勝手な子どもとしてあるべき姿を押しつけているだけだ。

いもいもの森の教室は違う。仮に1日中誰とも話さず川面をただ眺めている子どもがいたとしても、誰も心配なんてせず、「あの子、すげー。1日中、川の流れを見ていたよ」とむしろみんなが尊敬の眼差しを向ける。

子どもの成長なんて考えなくていい

世の中には、短期間で計算力を飛躍的に向上させる教室もあるし、ゲーム感覚でハイテンションに学習を進めさせてくれる教室もある。果たしていもいもの森の教室は、何のための教室なのだろう。森の教室に通うと、子どもにどんな変化が起こるのだろう。改めてイモニイに聞いた。

「子どもが変わる必要なんてないんですよ。成長なんて考えなくていい。そのままですごいんだから。ありのままの子どもたちの振る舞いを見て、僕は毎回感動します」

たとえばどういう場面か。

「おあつらえ向きの道具など大人が用意しなくても、子どもたちはその場にあるものをいろんなものに見立てて道具にしたり、遊んだりします。わざわざ多様性なんて言葉を持ち出さなくても、気に食わない部分も含めてお互いの個性を認め合い、自然に役割分担が生まれます。みんなで一見無秩序にわいわいやるなかで、傷ついた子どもがいたり、悲しい気持ちになってしまった子どもがいたりしたら、誰かがさっと気づいて、正義や道徳を振りかざすことなく、大人よりも平和的にその場をおさめてくれます。そんなにすごいことを、彼らはごく自然にやってのけます」

保護者から送られてきたLINEをちらっと見せてもらった。普段学校に行っていない子が、森の教室から帰ってきて母親につぶやいた言葉を、こっそりイモニイに伝える内容だった。

「オレ、森の教室、好き。だってなんにもしなくても、イモニイとかツッチー*2とか、前にあったことを思い出してくれて、『すごいよな』って頭をなでなでしてくれるんだもん」

「いもいも」として「そういうふうにほめよう」などという方針があるわけではない。みんなの前でわざとらしくフィードバックするわけでもない。イモニイたちはたまたまその子と二人きりになった瞬間などに、ぼそっと、その子について抱いている素直な感情を伝えているだけだ。たとえばイモニイの視点とツッチーの視点が一貫しているわけでもない。

イモニイもそのまわりの大人たちも、「良い/悪い」をジャッジしない。そもそもいもいもには「目的」がない。「子どもたちが思わずプルッとする瞬間」を追求しているだけだ。

「押すなよ、押すなよ……」で、ずぶ濡れになるイモニイ(2021年2月筆者撮影)
「押すなよ、押すなよ……」で、ずぶ濡れになるイモニイ(2021年2月筆者撮影)

なぜわんぱく坊主が不登校になるのか?

森の教室が開催されるのは平日の昼間。つまりここに来ている小学生から中学生までの幅広い年齢層の子どもたちは全員、学校を休んでいる。長期間不登校の子どももいる。森の教室があるときだけ、学校を休む子どももいる。

好奇心が旺盛でリーダーシップがあり語彙が豊富で頭の回転も異常に速い男の子がいた。わんぱく坊主でありながら、自分より小さな子どもの面倒をよく見る。しかし、学校では叱られてばかりで不登校状態だという。

学校ではお友達になじめず、ずっと一人で黙っているという子どもも、森の教室では、あふれんばかりの笑顔で、幅広い年齢の仲間といっしょになってはしゃぐ。それを見た保護者がびっくりすることもしばしばだ。

ここでもう一度、環境に対するモンテッソーリの考え方を思い出してほしい。森の教室でみんなから慕われるリーダーの役割を担うことができる子どもが、学校では問題行動を頻発し叱られてばかりということは、学校の環境設定に問題があるとしか考えられない。

学校では子どもたちのあるべき姿が示される。大人たちからの要望を察知して自主的にそこを目指せる子にはいいが、自発性が豊かなためにそこに強い抵抗を感じる子どもにはつらい。自主性と自発性は似て非なるものである。

あるいは森の教室の風景は、昔なら放課後のごくありふれたものだったのかもしれない。子どもたちの心と体は、大自然ではないにしてもそれなりにのどかな環境の中、大人たちの目の届かないところで十分にのびのびできていたために、学校での多少の窮屈さに耐えられたのかもしれない。

しかし現在は、子どもたちの生活圏から自然環境が減り、公園にすら「べからずリスト」の看板が睨みをきかせるご時世である。のびのびできる放課後が消滅した代わりに、週1回くらい、学校を休んで森の教室のような時間をすごしたほうが、頭と心と体のバランスも整い、結局のところ学校での活動にも前向きに取り組めるようになる可能性だってある。

学校との距離感を調整するという発想

私の思う理想は、子どもたちが朝起きて、「今日はなんだか学校に行きたくないから、森の教室に行こう」と気軽に選択できることだ。そうすれば、学校という環境設定が苦手な子どもでも、学校をその子なりに最大限利用できる。

森の教室は現在、週1回だけの開催だが、2021年4月以降は週2回の開催になる。子どもたちが学校との距離感を調整するためにいつでも利用できる緩衝地帯として、平日に毎日開催してもいいのではないかと私は思う。

ただし、学校よりも森の教室のほうが教育システムとして優れていると言うつもりもない。同じ次元で比較できるものではないし、そもそも完璧な教育システムなんてありえない。

子どもの個性を尊重する学校のあり方が常に模索されてはいるが、学校システムを一人一人の生徒に対して個別最適化するには限界があるのも事実だ。理想の学校をつくろうとする動きもさまざまあるが、All in Oneの理想を思い描いた瞬間、子どもたちが置き去りにされかねない。であるならば、発想を逆転して、学校との距離感を生徒各自が個別に調整できるようにすればいいのではないだろうか。

私にも若いころ、学校をつくりたいという夢があった。しかしさまざまな教育現場を訪れた結果、近年その思いがしぼんできたのを感じている。代わりに私がいま思い描くのは、家庭があり、地域社会があり、学校があり、学童や児童館があり、習い事や塾があり、「いもいも」のような環境があり、そのときの感覚で子どもたちが自由に居場所を選べるモザイク模様の教育文化をもつ社会だ。

*1 『大君の都 幕末日本滞在記』(オールコック著、山口光朔訳、岩波文庫)より

*2 ツッチーとは、イモニイの中高同級生で森の教室を仕切っている土屋敦さんのこと。若いころはラテンアメリカの大自然を旅して回り、日本帰国後も自然環境の中で自給自足の生活を営みながら子どもを育てた経験をもつアウトドアの達人であり、イモニイの名参謀。

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●目的がないのに子どもが集まり子どもが変わる「奇跡の教室」の新たなる挑戦

https://news.yahoo.co.jp/byline/otatoshimasa/20200102-00157396/

育児・教育ジャーナリスト

1973年東京生まれ。麻布中学・高校卒業。東京外国語大学英米語学科中退。上智大学英語学科卒業。リクルートから独立後、数々の育児・教育誌のデスクや監修を歴任。男性の育児、夫婦関係、学校や塾の現状などに関し、各種メディアへの寄稿、コメント掲載、出演多数。中高教員免許をもつほか、小学校での教員経験、心理カウンセラーとしての活動経験あり。著書は『ルポ名門校』『ルポ塾歴社会』『ルポ教育虐待』『受験と進学の新常識』『中学受験「必笑法」』『なぜ中学受験するのか?』『ルポ父親たちの葛藤』『<喧嘩とセックス>夫婦のお作法』など70冊以上。

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