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ベッキーに復帰してもらわないと困る人たち。”金スマ出演”の裏で動いた政治とイメージ戦略。

五百田達成作家・心理カウンセラー
(写真:アフロ)

去る13日、不倫騒動で休業していたベッキーが「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」(TBS)に出演して復帰を果たしました。

私自身、興味本位でついつい放送を見てしまいました。

何度となく詫びの言葉を繰り返すベッキーの姿に、「はぁ、ここまでしないと世間は許してくれないのか、でもまあ、そうなんだろうな……」と息苦しい気持ちを覚えたいっぽうで、トータルとしては「上手にみそぎをクリアしたなぁ」という印象を持ちました。

現実社会においては”男性”(番組の中で、川谷絵音のことを終始こう呼び続ける様子はホラーでした(笑))の妻にお詫びを済ませる。と同時に、テレビを通じて視聴者への謝罪をこなす。

対当事者・対世間、両面への謝罪をクリアしたかたちで、視聴者からもおおむね好意的に受け止められたようです。

ベッキー騒動とはなんだったのか?

さて、年明けから始まった今回の騒動。これまで、さまざまな人がさまざまな視点からさまざまなことを発言してきました。

不倫の是非、なぜベッキーだけこんなに責められるのか、LINE流出の犯罪性、離婚すればいい etc.……。

それはもう大変な数の意見が飛び交う中で、私が個人的に最も深く納得したのが、

「ベッキーはタレントで、川谷はミュージシャン。批判に差があるのは当然」

という言説でした。

タレントは好感度でご飯を食べている

タレントと呼ばれる職業の人たちは、好感度が命です。命というのは比喩ではなく、実際にそれでご飯を食べています。なんなら、それのみで。

暴論を承知で言うなら、その人自身にどのような能力があるかということは、タレントを語る上ではあまり重要ではありません。歌が歌えるとか、話が面白いとか、なんなら、かわいいということすら必須ではない。

物腰、物言い、ファッション、メイク、露出のタイミングなどなど、トータルで人が、視聴者が、世間が、「なんかいい」「感じがいい」と思いさえすれば、タレントとして価値がある。番組に起用されるし、CMに起用される。逆にそうじゃなかったら、どんなに人柄がいい人でも、どんなに才能溢れる人でも見向きもされない。

「なんかいい」「見やすい」という好感度、そこに明確な基準はないのです。あえて言葉にするなら「清潔感」とか「明るさ」とか「華」とかでしょうか。繰り返しになりますが、かわいいとか、話が面白いとか、そういうことは関係がないのです。

つまり、タレントとは圧倒的なイメージ商売。人々の支持だけが生活の糧で、好感度が下がったら即失業。という点では、「落選したらただの人」などと揶揄される政治家と近い職業と言えるでしょう。

あるいは、人々が勝手にイメージを乗っけるという点では、実直さを求められる銀行員、清貧さを求められる教師などとも近いかもしれません。

イメージがよければ、いくらでもチャンスが与えられる。イメージが損なわれたら、即、その日から、飢える。そういう意味では、ベッキーはまさにタレントでした。

歌手でもなく、俳優でもなく、モデルでもない。彼女こそ、まごうかたなき、タレントの中のタレント。人は多くのイメージ(清楚さ、明るさ、上品さ、気さくさ)を彼女に託したし、その一点のみに、商品価値が生まれていたわけです。

その大事な大事なイメージが、不倫騒動で損なわれてしまった。となれば、休業に追い込まれたり、CMを降板させられたりするのは、当然のことです。

当然というのは「倫理上報いを受けるべき」ということでは決してありません。あくまで、彼女の仕事上、ダメージを受けざるを得ない、そういう構造、ということです。

田畑を失ったら、農家は耕作ができないのと同じように。体力が落ちたら、アスリートが結果を出せないのと同じように。

ミュージシャンは才能でご飯を食べている

いっぽうで川谷絵音は、タレントではありません。ミュージシャンであり、アーティストであり、さらに言えば芸術家です。

彼らの仕事にとって、イメージは(ある程度)どうでもいい。イメージがよかろうが悪かろうが、いい作品は評価されるし、よくない作品は評価されない。

もちろん作品の「いい」「悪い」なんてものは、より一層明確な基準がなく、「いいけれど売れていない」なんて作者は山ほどいますし、逆に「売れてないということはよくないのだ」という主張をする人も一定数いて、なにがいい・悪いかは、永遠の謎です。

それでも少なくとも、彼らは、感性と技術で勝負していて、作品のクオリティで食べている(あるいは、だからこそ多くのアーティストは食べられていない)。

メディアに露出して顔を売って、好感度をアピールすることはあっても、それは彼らの本業ではない。本業はあくまで作品(彼の場合は音楽)を作り、世に問うことです。

消費者は、その作品をいいと思ったら買うのであって、だからこそ、イメージが損なわれてもダメージは少ない。これもまた、当たり前なわけです。

もちろん「この人、感じがいいな」という理由でCDを買ったり、小説を買ったり、絵を買ったりする(あるいは、好感度が下がったので、買わなくなる)ことはあるかもしれないけれど、それは二次的なものです。

だから今回の騒動で、仮にふたりが同じ分量だけイメージが傷ついたとしても、割を食うのはベッキーのほうだった、それは職業が違う以上、最初からそうなる仕組みだった、ということです(不倫行為における男女の非難され方の違い、また、知名度の差など、考慮すべき視点は他にいくつもあるわけですが、ここではあえて触れません)。

ベッキーは私たちだ

ちなみに、「タレントはイメージ、アーティストは才能」という二項対立的な区別はもちろん少々乱暴なもの。

現実にはこの二つの要素を行ったり来たりしながら、あるいは、この2要素の掛け合わせで、多くの人は芸能界・芸術界・エンタメ業界を生き抜いています。

周囲から面白いと認められているのに、華がなく、ブレイクしないお笑い芸人。

多方面で活躍しているけれど、”色もの”扱いをまぬがれないマルチタレント。

さらに言えば、イメージを人気、才能を技術に置き換えると、スポーツ界も同じように考えられますし(例:ヒットは打つけど、人気がなくて、グッズが売れない野球選手)、イメージを人望、才能をスキルに置き換えると、サラリーマンの世界も同じです(例:仕事はできるけど、人望がないので、なかなか昇進しない課長)。

イメージは政治力で守る

さて、話をベッキーに戻しましょう。

ベッキーとはお茶の間の人気者であり、日本中のおじいちゃん・おばあちゃんが「かわいい、かわいい」と愛でていた、いわば「日本の孫」「国民の宝」でした。その彼女の人気を頼りに、事務所、スポンサー、メディアなど、多くの人がビジネスを展開していたわけです。

つまり、定期的に供給されるとは限らない「人気」というものだけを材料に商品を作っている企業のようなもので、実に危なっかしいプロジェクトです。つまりは、人気商売・イメージ産業の最たるものでした。

逆に言うと、タレントビジネスに携わる人たちは、そのイメージを死守しようと奔走。なぜなら、イメージが失われたら、彼らもまた、即飢えるからです。

そこで事務所の人たちが大事なタレントのイメージを守るために、発揮するのが「政治力」です。戦略を練り、ギリギリの線で駆け引きや交渉を繰り返します。

テレビ局内で繰り広げられていた攻防戦

実際、騒動が佳境だった1月〜2月当時、多くのワイドショー・情報番組の水面下で、「ベッキー騒動を扱っていいものかどうか」というせめぎ合いが起きていたと聞きます。

現場としてみれば、視聴率が取れるから扱いたい。そもそも、他の芸能人の不倫騒動を扱ってベッキーだけを聖域として除外するわけにはいかない。

ところがテレビ局の上層部としてみれば、ベッキーは事務所・広告関係者と一緒に作り上げてきた大事な商品。多くのお金と人が関わっている一大プロジェクトを、自らの手で傷つけるようなことは避けたい。

こうして、一部の番組ではベッキー騒動を、おそるおそるなるべく荒立てないように、あるいは、しぶしぶ仕方なく最小限度に報道していました。

そうやって、メディアに手心を加えさせることこそ、まさに事務所が発揮する大事な「政治力」です。

「金スマ復帰」の裏で動いた駆け引き

そう考えると、今回の「金スマ復帰」にしても、裏ではどれだけ大きな力が働いていたか想像すると、気が遠くなるほどです。

ほとぼりが冷めた頃合いを見計らったタイミング。

前回、過保護にしすぎて失敗した記者会見ではなく、バラエティ番組の中でおだやかにリラックスしながら語らせる空気作り(もちろん生放送ではない)。

旧知の仲であり(”ベツキー”という異称で呼ぶ間柄)、国民的な支持を誇る中居正広に対面させる建て付け。

優しさと厳しさのバランスが取れたインタビュー内容、視聴者が聞きたいことを聞くけれど、最後の最後の一線については言葉を選ぶ配慮。

仕込み、交渉、綱引き、タイミング、編集、根回し……。ここまでの数ヶ月間、それはもう大変だったはず。結果、完成した映像はケチのつけようがなく、私たちは否応なしに納得させられたのです。

いかに多くのオトナたちが、いかに辛抱強く、ベッキーというプロジェクトを復活させようと奮闘したか……。大変お疲れさまでした。

再出発したベッキー号の行く末

ベッキー号は、こうして再び船出することができました。

しかし、行く手には変わらず「イメージ」「好感度」という、実に移ろいやすく、時に暴力的な、荒波と風雨が待っています。

いつなんどき、再び転覆するかもしれない。一度修理した亀裂から、徐々に水が沁みてくるかもしれない。

これからの航海が安全に進むかどうかは、百戦錬磨の乗組員たちの、腕っぷしにかかっているのです。

(五百田 達成:「察しない男 説明しない女」著者)

作家・心理カウンセラー

著書累計120万部:「超雑談力」「不機嫌な妻 無関心な夫」「察しない男 説明しない女」「不機嫌な長男・長女 無責任な末っ子たち」「話し方で損する人 得する人」など。角川書店、博報堂を経て独立。コミュニケーション×心理を出発点に、「男女のコミュニケーション」「生まれ順性格分析」「伝え方とSNS」「恋愛・結婚・ジェンダー」などをテーマに執筆。米国CCE,Inc.認定 GCDFキャリアカウンセラー。

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