伝統文化に対する馬鹿げた見方をやめにしないか
日本の伝統工芸が、後継者不足によって滅びつつある。
多くの場合、衰退のストーリーは次のように語られる。時代が移り、価値観が変化した。戦後になって、大量生産によって安価な製品ができるようになり、人々は新しいものにばかり興味を抱くようになった。それゆえ古きよき職人の技術は、需要がなくなっていく。また、儲からないがゆえに、後継者もいなくなる。
各地では、国や地方自治体の援助のもと、伝統工芸を守る動きがみられる。たしかに岩倉使節団の一員であった久米邦武も、伝統文化を保存せんとの積極的な動きは、文明国の要件だと述べた。とはいえ、必要性を失ったものを、援助のみによって生き永らえさせることは、可能だろうか。またそれは、本当に善であろうか。
ニーズを追い求めて変化することで、発展を遂げた工芸は枚挙に暇がない。馬具を作製していたエルメスは、バッグの一流ブランドになった。群馬の桐生織は、海外のデザイナーに使われている。山梨の甲州印伝は、グッチやティファニーの財布になった。活動する分野、領域、カテゴリーを移すことで、新たなニーズは見出される。
だとすれば、たとえ支援するにせよ、金銭の援助ではなく、ビジネス環境の整備であるべきだろう。職人はものをつくることで、職人たりうる。一方、流通を行うのは商人であるから、職人の仕事ではない。職人の技術と市場とをつなぐことで、日本の伝統は守られる。市場のニーズを把握し、製品に反映させることで、売れる仕組みはつくられるのである。
伝統工芸の職人を一人のアーティストと捉えることで、日本の伝統工芸は復活する。技術は目的を実現するための手だてであるから、目的の明確化から始めることが肝要である。
アートの本来の意味
アーティストとは、自らの芸術活動を収入源とする人のことである。
もともとアート art は、ギリシャ語のテクネー techne に由来し、ラテン語の ars に相当する言葉だ。人のつくるもの、という意味であり、ようするに技術一般のことである。自然 nature に対置する言葉でもある。
技術は修練によって、ますます向上する。それとともに、つくるものの「よさ」についても、意識されていく。それゆえアートは、近代以降になると、よい技術を指すようになる。とりわけ、美的要素を含む技術を意味するようになる。
明治になって、アートに「藝術」を充てたのは、西周である。「藝」という言葉には、人間精神の発露が含まれる。もともと「藝」は、ものを植えるさまを意味し、丁寧に育むことで豊かな実りが得られる、という考えを表現した言葉だ。また「術」は、技やスキルをまとめた体系であるから、これもまた、時間をかけて習得される。
「藝術」という言葉の裏には、術に支えられた技藝という意味がある。少なくとも、本来の用法としては、そういう意味なのである。それを簡略した言葉「芸術」が定着したが、元の意味に立ち返ることは重要であろう。すなわち、芸術としてのアートとは、思いつきや発想ではなく、人間の努力による蓄積の賜物なのである。
ところで近代を創始する思想を生み出したルネ・デカルトは、全体は部分の総和であると考えたが、それは間違いだ。全体には、人間の解釈や、表に表れなかったもの、表せなかったものが含まれる。いわゆる背景とか、思想、信条、意図、および意志などが、全体には含まれる。
技術的な「よさ」は変化する。文化の発展と、時々の社会の要請によって、その評価も変わっていくからだ。それに堪えられない技術は、淘汰され、それに代わる「よさ」に置き換わる。いいかえれば、現在までの蓄積、工夫の連続が足りないがゆえに、技術は廃れてしまうのである。
したがって職人は、個々の状況をふまえた「よさ」を追求し続けることによって、アーティストたりうる。たんに技術を組み合わせたものは、アートではない。アリストテレスのいうように、技術はそれ自体、とくに何か価値をもつものではないのだ。技術を現代のコンテクストにおいて価値化することができたとき、現代に技術は活かされる。
伝統への無理解
ときおり伝統工芸品などといって、文化的遺物をまったく変容させないまま、保存する向きをみることがある。
それらは現代のコンテクストに適合しておらず、したがって売れない。売れないということは、ニーズに合わないということだ。それなのに伝統工芸品は、値段ばかり高くなり、ますます人々の要求から解離してしまう。
こうしたことが生じるのも、職人というより、彼らの技術を生かす人が、伝統とか工芸、あるいは文化といったものを、表面的にしか理解していないことによるのだ。すなわち伝統とは、過去から現在までの連続を意味し、工芸とは、芸術的な趣向の施された実用品のことである。そして文化とは、社会内存在である人間のふるまいの総体である。
だから伝統文化というのは、過去の遺物ではなく、現在まで連綿と続く、人間のふるまいの総体をいうのだ。そのうち伝統工芸とは、いまなお人々に有用とされ、かつ金銭を支払うに見合う価値を提供するものである。すなわち工芸品の「よさ」は、人々の価値観において妥当とみなされるものでなければならない。アーティストとは、それを模索し、追求する者のことをいうのである。
伝統工芸品を、ありのままに残したい気持ちもまた、理解できる。しかしそうであればこそ、商売として成立させるための努力もまた、必要なのだ。売れないものを保存するのには、金がかかる。その金を稼ぐために、卓越した技術を活かさない手はない。一般に流布するものと、そうでないものを分離し、前者を商売にすることで、古きよき精神は残されていく。