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「種は誰のものか」と問われたら、ちゅうちょなく「百姓のものだ」と答える

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長
秩父のななめ畑 

「種は誰のものか」と問われたら、ちゅうちょなく「百姓のものだ」と答える

種は誰のものか、と問われればちゅうちょなく「百姓のものだ」と答える。主要農作物種子法(種子法)という法律が先の通常国会でいきなり廃止された。種子法というのは、コメ、ムギ、ダイズといった基本食料となる種子を公的に管理し、“国民”の食料確保を支えようという法律だ。この法律があることで民間資本の種子市場への参入が阻まれるというのが廃止の理由。安倍政権の規制緩和の一環だ。日本の食料が危ないということで反対運動が盛り上がり、廃止後に「日本の種を守る会」が学識者や消費者、JAなどが集まって立ち上がったりもした。そこでは、種子の公的管理の重要性が強調される。それはそれで結構なのだが、こうした動きのなかで肝心の主人公である百姓の姿が見えない。“百姓不在”の運動にどこか違和感も覚える。そこで、筆者が住む埼玉県の山間地、秩父を舞台に、百姓と種も物語のほんの一端を紹介することにした。(大野和興)

本来、農業と風土は切り離せない。地域には地域特有の風土がある。地域の風土が地域の農業をつくり、人びとの生きる糧を供給してきた。だから、その風土が育てる農業もまた、地域ごとに異なる。耕し方も作り方も品種も、それぞれ地域特有のものがある。品種の場合、それを地種(じだね)といった。そこから地域特有の食材が作られ、それが地域特有の食文化を生んだ。農業も食も食文化も、だから多様なのだ。多様性こそが農と食の本質といえる。

◆中津川イモ

林野率98%の秩父市大滝地区(旧大滝村)の最も奥の集落中津川。上州と県境を接するこのむらに伝わる中津川いもという地種のジャガイモがある。小粒で楕円形をしていて、薄赤い皮が特徴。大滝いもともいわれる。

中津川は標高800メートル、平場はまったくない。いもはこのあたりで「ななめ畑」といわれる急傾斜の畑で細々と作られ、守られてきた。やせ地で育ち、寒さに強いことから、貴重な食料として、奥秩父と山で連なる群馬の山間地でつくられてきた。(写真)

なぜこの地で作られるようになったのかには、諸説がある。日露戦争でロシアにいった農民兵士がふんどしに隠して持ち帰ったという説、同じく中南米に移民として渡った日本人がペルーから持ってきたという説、などなど。そういわれれば中津川いもはジャガイモの原産地アンデスの原種に近いという感じもする。暇ができたら、中津川いものルーツを追う旅に出てみたいものだと思っている。

このいもの伝統的な食べ方に「いもぐし」がある。ふかしたいもを竹串に刺して、いろりのまわりに刺し、たれをつけながらあぶる。たれは各家庭でそれぞれ持ち味があり、みそが主で、その中にゴマ、エゴマ、サンショウの実、クルミなどを入れて練る。コメがとれない奥秩父や峠を越えた上州奥田野の村々では貴重な食べ物だった。たれは家々で独特の味があった。

いま山間地の畑はイノシシやシカ、サルなどの獣の被害に悩まされており、次第に生産は減っている。だが、平場に持ってきて植えても中津川いもの持ち味はなくなってしまう。条件が良いから大ぶり・大味のいもになってしまうからだ。高齢化や開発で山を離れた村人は、必ず種いもを抱えて山を下りたが、「いもの味がしない」を昔を懐かしがる。中津川いもはななめ畑のやせ地に限るのである。

=◆幻のさつまいもと老百姓

太白いもというサツマイモがある。古い品種で、埼玉・秩父地方から群馬にかけての山間部で主に作られていた。皮はやや薄い赤紫のきれいな色をしていて、切ると中は真っ白。ホコホコ系ではなくベチャベチャ系のイモで、ねっとりと甘く、イモ好きにはこたえられないおいしいイモと定評があった。酒好きのおやじでさえ、「このイモのてんぷらは抜群だ」ととろけるような目付きで、真顔でいうほどだ。

そのイモも、ついこの間まで”幻のイモ”と化していた。第二次大戦中から戦後にかけての食糧難の時代に、消えていったのだ。理由はこのイモの収量が低かったことにある。戦時中、まずはお腹を満たそうと奨励されたサツマイモは、とにかくでかくてまずかった。その代わりたくさんとれた。太白いもの二倍は取れたという話をきいた。

みんなが腹をすかせているとき、半分の収量しかないイモを作ったりしたら、それこそ非国民と名指しで非難されかねなかった時代である。食糧難は戦後も続く。太白イモは秩父の山間地からほとんど姿を消した。今年80歳になった埼玉県の山間地域、秩父市の飯沢久さんはこの太白イモをずっと守り続けてきた。

「頭のいい人はこんなイモはすてて、金になるものに切りかえていった。自分はうまいイモだから、絶やしてはもったいないと作り続けただけ」

サツマイモは寒さに弱い。摂氏10度以下に下がると低温障害を起こし、黒く変色したり腐ったりする。だから農家は、家の中に地下の貯蔵庫を作ったり、畑に深いイモ穴を掘ってり、南向きの傾斜面にむろをつくったりと、さまざまな工夫を凝らして冬を過ごす。特に種イモの保存には神経を使う。山国秩父の冬はきびしい。飯島さんは家に中にイモをいれ、毛布や布団をかけてやりながら守った。

そのイモがいま脚光を浴びている。飯島さんの話が次第に広がり、「もう一度太白を食べたい」という注文が殺到しているのだ。飯島さんは周辺に呼びかけて「ちちぶ太白サツマイモ生産組合」を06年に立ち上げた。

07年には地元の農業高校で太白いもを使った調理実習がおこなわれた。イモを提供したのは飯島さん。フードデザイン科の2年生40名が参加、生徒たちは約1時間かけて太白サツマイモごはん、太白サツマイモのとろーりクリームスープ、まるいもコロッケ、いもいもスイーツの4品を完成させた。

◆地大豆  借金なし物語

秩父郡横瀬町の百姓、八木原章雄さんの話を聞いた。

私がこの大豆に出会ってのは20年前です。甘みがあっておいしく、その上病気に強くて収量も多いということで、秩父から上州にかけての山間地でも盛んに作られていたらしいのですが、当時、地元の古老にいても「昔作ったことがあるような気がする」という程度で、歴史の霧の中に埋もれた幻の品種でした。「借金なし」と呼ばれていました。

わたしのうちは養蚕農家で畑は全部桑園にしていましたから、大豆は作ってなかったんですね。それで味噌だけは大豆を買って作っていた。コメは作っていたので、麹屋に頼んで米麹にして米味噌を作っていました。その頃大豆が自由化されて輸入大豆が大量に入る時代になっていて、考えてみれば私が買った大豆もアメリカ産だった。複雑な気持ちでしたね。

その養蚕をやめたのが90年代です。桑園が不要になったので、大豆を作ることを思いたちました。そのとき伝統発酵食品の味噌は国産大豆で作らなければと思ったのです。数年前廃止されたのですが当時秩父市に県農業試験場の支場があって、そこに在来大豆が保存されていることを知り、訪ねたのですね。それが「借金なし」との出会いです。

秩父の言葉で「なす」というのは「返す」を意味しています。それで「借金なし」。借金があっても、この大豆を作れば借金が返せる、というので、この言葉になった。食味もよくて、煮豆にしてもおいしいし、この大豆で作った味噌はとても評判がいい、豆腐もおいしい。大豆加工品として地元特産づくりの有望品種です。

「借金なし」大豆のもう一つの特徴は、品種としてまだ固定してなくて、栽培しているといろんな形状、色のものが出てくるということです。本来の大豆の色のほか、黒、緑、茶といろいろ入り混じってカラフルです。秩父農林振興センターに頼んで「八木原系大豆」として栽培試験や分析をしてもらったりしました。大豆はもともとはつる性の植物なのですが、栽培の過程でつるが伸びたりもします。

グローバル化で格差と貧困が拡大するなかで「借金なし」というのは絶妙のネーミングですよね。名前もいいし、おいしいし、病気に強くて作りやすいということで、地域でいろんな人に種を配り、作ってもらうようにしてきました。一時は広まったのですが、高齢化が進む中で生産が伸びないのが残念です。この名前は使えるということで、農業とは何の関係もない人に商標登録されてしまうという出来事もありました。あわてて市とJA農協に働きかけて、JAちちぶで「借金なし大豆」という名称で商標登録をとってもらっています。農協組合員なら自由に使えるようになっています。行政がもう少し力をいれて、地域特産に育てる方策を講じてくれるといいのですが。

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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