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【戦国こぼれ話】かつての主君の黒田長政から究極のパワハラを受けた後藤又兵衛

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
慶長20年(1615)5月6日、後藤又兵衛は大坂夏の陣で戦死した。(写真:イメージマート)

 407年前の今日(5月6日)は、後藤又兵衛が大坂夏の陣で戦死した日である。ところで、又兵衛はかつての主君だった黒田長政から酷いパワハラを受けていた。その顛末を紹介することにしよう。

■後藤又兵衛とは

 最初に、後藤又兵衛基次(以下、又兵衛で統一)の略歴を紹介しよう。永禄3年(1560)、又兵衛は基国の子として、播磨国で誕生した。その後、紆余曲折を経て、黒田官兵衛孝高に仕えることになった。以後、又兵衛は官兵衛に従って各地を転戦し、大いに軍功を挙げた。

 又兵衛は武芸に優れており、「黒田二十四騎」、「黒田八虎」の一人に加えられた。これは近世に至って成立したもので、同時代のものではない(「武田二十四将」と同じ)。しかし、後世に至って、又兵衛が優れた武将として評価された証になろう。

 慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦において、黒田官兵衛、長政父子は東軍に属して戦い、東軍の徳川家康を勝利に導いた。その結果、長政は筑前国名島に約52万石を与えられたのである。

 むろん、又兵衛も軍功を評価され、大隈城(益富城)の城主となった。1万6千石の所領を与えられたというが、実際は1万~1万4千石程度が妥当であると考えられる。

 とはいえ、1万石といえば大名クラスの知行だったので、かなりの大身である。黒田家に限らず、諸大名の家中には1万石の知行を持つ家臣が存在し、彼らは大きな発言権を持っていた。したがって、大名当主は家中統制に苦しんだのが事実である。

■又兵衛と長政の確執

 又兵衛には、黒田家の発展に貢献したという自負があったに違いない。一方の長政は父の官兵衛が偉大だっただけに、家中の統制に苦しんでいた。上から押さえつけるのではなく、良好な関係を作るのに苦労したに違いない。

 慶長9年(1604)、黒田家中興の祖の官兵衛が亡くなった。又兵衛が黒田家を出奔したのは、2年後の慶長11年(1606)のことである。なぜ、又兵衛は黒田家を飛び出したのであろうか。

 もっとも有力な説は、又兵衛がほかの大名(細川氏など)と盛んに書状を交わしていたからだった。戦国武家家法などには、他国の大名と音信を交わすことを禁じた例がある。つまり、そういう行為に出た場合は、謀反の意ありと解されても仕方がなかったのである。

 当時、黒田氏と細川氏は、百姓が走る(百姓が他領に逃げること)などしたので、決して良好な関係とはいえなかった。そのような事情も影響し、又兵衛は長政と関係が悪化し、ついに黒田家を出奔したのである。

 「又兵衛ほどのものなら、きっと仕官先があるはず」と思うに違いない。しかし、長政は先に手を打っていた。長政は諸国の大名に対して、「又兵衛を召し抱えないように」と通達していた。これを「奉公構」という。

 又兵衛は、姫路藩の池田輝政の領内に逃げ込むなどしたが、ただちに長政は池田氏に召し抱えないよう通達した。その後、又兵衛は福島、前田、結城らの諸大名から仕官の声が掛かったが、すべて長政によって話を潰されたのである。

 それだけではない。長政は又兵衛の家族や縁者を探し出し、福岡に抑留した。長政は再び又兵衛を召し抱えようとしたが、結局、音信不通となり実現しなかった。いずれにしても、又兵衛は執拗な「奉公構」で、又兵衛の再就職を妨害したのである。今で言えば、パワハラである。

■むすび

 長い牢人生活を送った又兵衛は、慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城した。しかし、翌年5月6日の大坂夏の陣において、奮闘虚しく戦死したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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