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【深読み「鎌倉殿の13人」】失敗に終わった「打倒平氏」の挙兵計画「鹿ヶ谷の陰謀」とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
平清盛に謀反を起こそうとした面々は流罪となった。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、失敗に終わった挙兵計画「鹿ヶ谷の陰謀」が取り上げられていなかった。非常に重要な事件なので、取り上げることにしよう。

■鹿ヶ谷の陰謀

 平氏が平清盛を中心に我が世の春を謳歌していた頃、水面下では反平氏の動きが活発になっていた。

 安元3年(1177)5月、藤原成親、西光が中心となり、俊寛、平康頼、藤原成経(成親の子)、藤原師光ら後白河の院近臣が打倒平氏の謀議を行った。

 場所は俊寛の京都・鹿ヶ谷(京都市左京区)の山荘である。むろん公家や僧侶は武力を持たない。そこで、多田行綱や北面の武士をあてにしていたのである。

■鹿ヶ谷の陰謀の失敗

 ところが、彼らの作戦は、もろくも失敗に終わった。同年6月1日、行綱は彼らを裏切り、西八条邸の清盛のもとへ行き、ことの次第を密告したのである。

 最初、行綱は謀反に乗り気だったが、武力で平氏にはかなわないと思い直したのだろう。激怒した清盛は、謀議に参加した面々を1人残らず捕縛した。

 なかでも西光は清盛に顔を踏みつけられつつも、平氏を罵倒し助命を懇願しなかった。逆上した清盛は西光を激しく拷問し、最後は斬首して晒し首にしたという。西光はよほど清盛のことが嫌いだったのだろう。

■流罪に処せられた人々

 同月4日までには全員が捕まり、それぞれが流罪に処せられた。次のとおりである。

①蓮浄―佐渡国。

②中原基兼―伯耆国

③平章綱―播磨国。

④惟宗信房―阿波国。

⑤平資行―美作国。

⑥藤原成親―備前国。

 以上であるが、備前国に流された首謀者の藤原成親は、翌月に亡くなったとの説、途中で殺害されたとの説もある。

 ところが、俊寛、藤原成経、平康頼は、とんでもない場所に流罪となった。それは喜界ヶ島である。ただ、喜界ヶ島の場所について2説ある。

 鹿児島県大島郡喜界町の喜界島、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島がそれである。ほかにも、俊寛にまつわる伝承が残る地域がある。ちなみに硫黄島のほうが、喜界島より鹿児島県に近い。

■喜界ヶ島での生活

 同年、配流が決定した3人は、薩摩国川辺郡鹿籠(鹿児島県枕崎市)で約1週間ほど船を待った。航行に適した風を待っていたのだ。

 その途中、康頼は周防国室積(山口県光市)で出家し、性照と号した。そもそも官職は剥奪されているので、まったくの無位無官であった。出家は平氏に対して、反省の意をアピールするためであったか。

 3人はようやく喜界ヶ島に到着したが、そこは都と比べようもない、想像を絶する未開の地であった(『平家物語』)。まず、米がなかったことである。

 そのため魚や鳥を捕えて食する以外に術はなかった。こうした食糧事情も都で優雅な生活を送っていた3人にとっては、耐え難いことの1つであったに違いない。

 ほかに3人を不安に陥れたのは、終日続く硫黄岳の噴煙であった。その独特の臭気は我慢ならないもので、海は硫黄で黄色に染まっていたという。都の美しい風景になれていた3人にとっては、異様なものに見えたに違いない。

■むすび

 今回の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、「鹿ヶ谷の陰謀」が取り上げられなかった。しかし、ドラマを理解するうえで、知っておいたほうがいいだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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