【深読み「鎌倉殿の13人」】佐藤浩市さんが演じる上総広常が、率先して佐竹氏を討った理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」10回目では、源頼朝が佐竹氏を討った。その際、率先して佐竹氏を討伐したのが上総氏であるが、その理由を深く掘り下げてみよう。
■佐竹氏の立場
佐竹氏は、常陸国の有力な豪族だった。佐竹氏は頼朝と同じく源氏の一族だったが、平治元年(1159)の平治の乱では平家に与した。以降、佐竹氏は一貫して平家方だった。源頼朝の挙兵時、義政と秀義はいまだに頼朝に従うことはなかった。
治承4年(1180)10月、頼朝の率いる軍勢が富士川の戦いで、戦わずして平家に圧勝した。上総広常、千葉常胤、三浦義澄の諸将は上洛を止め、平家方に与する常陸国の佐竹氏を討ち、東国を固めるよう進言した。頼朝は彼らの助言を受け、佐竹氏の討伐を決意した。
当時、日本国内は飢饉だったので、西上しても十分な兵糧が確保できない可能性があった。東国の豪族は上洛が本意ではなく、東国から平家方の勢力を一掃したいという気持ちがあったのだろう。いずれにしても、上洛には十分な準備が必要だった。
■合戦の開始
同年11月、頼朝の軍勢は佐竹氏攻撃を開始した。頼朝軍が陣を敷いたのは、常陸国府(茨城県石岡市)である。ここで、強い存在感を示したのが、上総広常だった。広常は佐竹氏と姻戚関係にあったので、まずは話し合いで解決しようとした。
義政も広常を通して、頼朝に帰参しようと考えた。ところが、秀義は強硬な態度を崩さず、すぐには参上できないとし、居城の金砂城(茨城県常陸太田市)に籠った。そこで、義政は大谷橋(同小美玉市)で広常との会見に臨んだが、あっけなく討たれたのである。
広常が会見に臨む前、あらかじめ頼朝から義政を討つように命じられていた。そもそも、頼朝には最初から降参を受け入れる気はなく、広常の面会の目的は殺害だったのである。
■その後の佐竹氏
義政が殺されたので、佐竹氏は大いに動揺した。佐竹氏の配下の者のなかには、頼朝のもとに走ったり、あるいは逃亡したりする者が続出した。とはいえ、秀義が籠る金砂城は難攻不落の名城で、容易には落城しなかった。
そこで、広常は、佐竹氏の一族の佐竹義季を味方に誘い入れ、形勢を挽回しようとした。義季は金砂城に籠っていたが、要請を受け入れて、ただちに頼朝方に与した。義季は金砂城の構造などに詳しかったので、その手引きによってすぐに落城したのである。
■佐竹氏攻略の目的とその後
頼朝による佐竹氏攻略は、先述したとおり①東国諸豪族の進言、②飢饉などにより上洛が困難、という理由が挙げられよう。しかし、それでは佐竹氏に異常な執着を示した理由として、決して十分ではない。
そもそも頼朝は、佐竹氏に味方になるよう呼び掛けていなかった。それは、東国の諸豪族が佐竹氏と対立していたことも、少なからず影響していよう。最近の研究によると、佐竹氏はなかなか頼朝に従わず、長い期間にわたって敵対行動をとったという。
つまり、佐竹氏は東国の諸豪族だけでなく、頼朝にとっても不倶戴天の敵だったのかもしれない。頼朝軍に敗れた秀義は奥州に逃れたというが(逃亡先は諸説あり)、その後も長らく頼朝に従わなかった。
文治5年(1189)の奥州藤原氏討伐の際、秀義は頼朝の命に応じて出陣し、大いに軍功を挙げた。これにより、秀義は御家人に列せられ、頼朝の配下に加わったのである。
■むすび
ドラマのなかでは、頼朝が佐竹氏を討った理由や背景については、スルー気味だった。佐竹氏を真っ先に討った理由は、東国の諸豪族だけでなく、頼朝の意向があったと考えるべきだろう。