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さあ、夏! 高校野球・新天地の監督たち/2  相生学院(兵庫) 河上敬也

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

「充実していますよ」

四方ぐるりを緑に囲まれた兵庫県多可町・加美運動公園野球場で、河上敬也監督は言う。35年率いた小樽の北照から今季、相生学院に転じた。相生市に本部を置く通信制の高校。2013年に創部した野球部の拠点が、多可校である。

かつて北照を率いていた小樽はもともと、野球不毛の地と言われていた。南北海道には5つの支部があるが、ひとつだけなかなか甲子園に出られないのが小樽支部だったのだ。初めての出場が1991年夏、河上が率いた母校・北照である。以来春夏通算8回の出場で、2010、13年のセンバツでは8強入りを果たした。10年のメンバーには西田明央(現ヤクルト)らがいて、つごう11人をプロ球界に送り出している。

そういう河上が57歳にして、しかも道産子でありながら、なぜ地元を離れて兵庫なのか。

「迷いました。知人を介してお話をいただき、昨年12月に承諾はしたものの、3歳になる孫とも離れがたくてね(笑)。2月に視察に来たんですよ。そこでもし、私への反感めいた空気があったら、撤回しようとまで思っていた。だけど反感どころか、選手たちは指導に飢えているという感じを受けました。私の待遇云々ではなく、練習環境にも好感を持ちましたし、なによりこの年齢になると、自分のことよりも、野球を通じて地域に貢献したいという思いが強かったんです」

それが学校、そして人口減に悩む多可町側と合致した。現在は、北照時代からチームづくりを支えてくれた真知子夫人とともに、30人の選手たちと同じ寮で暮らす。

だが、強豪を見慣れた目からは最初は戸惑いだらけだ。町のバックアップもあり、グラウンドこそ優先的に使用できるものの、ブルペンとは名ばかり、ケージやネットは申し訳程度。ボールは黒く汚れた60個程度があるだけだった。選手たちもしかりで、練習中は声も出なければ表情も生気がないかわりに、メニューの合間となるとだらだらと無駄口が続く。フリー打撃では野手陣のだれもバッピーができず、仕方なく本来の投手陣が投げる始末。エバースやグリーンライトという用語さえ通じなかった。

寮生活も勝手気ままで、まずは起床後の全員散歩から始め、手取り足取り規律を教えていかなくてはならない。だが、河上は言う。

「24時間一緒にいるので、私生活も含め、一から作っていくのは面白いですよね。少しずつでも、変わっていくのが分かるんです。また、教わることに飢えていたからこそ選手たちに伸びしろがあり、練習スタイルも確立したいまは、ジョークや笑顔も出るなど、表情が豊かになってきました」

全国制覇歴のあるテニス部に続け!

多可校は野球部員のみの30人。通信制ではあるが、月〜金の午前中は授業、午後から練習というスタイルだ。社や加古川も近い多可町はもともと、野球の盛んな土地柄。過疎化の進む町に、野球部がもたらす活性化を期待して、公共施設を室内練習場やブルペンとして利用できるような便宜も図られるという。

またスポーツに力を入れる相生学院では、加古川校を拠点にする男女テニス部が高校総体で団体優勝を果たしており、「野球部も甲子園出場を目ざしてほしい」(森和明理事長)との意気込みだ。

もっとも、甲子園通算勝ち星で全国2位の兵庫県のこと、全国制覇どころか、聖地にたどり着くことさえ並大抵ではない。東洋大姫路、報徳学園、神戸国際、育英などの私学だけではなく、明石商、社、長田といった公立校も力を持っている。現に春季大会は、初戦敗退(0対1松陽)だった。

だが、U-18ブラジル代表だった柳沼チアゴ投手らの好素材がおり、かねてから河上と交友のあった松岡弘氏(元ヤクルト)もひんぱんに指導にきてくれる。練習試合では関西学院、姫路工などからも白星を挙げるようになった。

「佐々木(啓司・元駒大岩見沢)さんから連絡があって、クラーク(記念国際)とも練習試合をしたんですよ。1試合目は7対1で快勝しました。"ろくにサインも出していないから、もう1試合やってくれ"と言われた2試合目は惜敗しましたけど(笑)」

クラーク記念国際は、やはり通信制の高校だ。北海道時代からしのぎを削ってきたライバル・佐々木監督が就任して3年目の今春は、北海道大会までコマを進めるなど、着実に力をつけてきている。そのチームに、主力が対戦する1試合目で完勝するのだから、相生学院の力もまんざらじゃない。

「おもに、中学時代は3、4番手の選手ばかり。通信制だけに、複雑な事情のある子もいます。ですが地域と密着した町おこしだったり、卒業してからトレーナーの道を志望したり、このチームなりの特色がある。そこに愛着と自信を持ってほしいですね」

河上の耳に、人づてに選手たちの声が届いたという。なんでも、「1年のときから河上先生だったら、ひょっとしたら甲子園に行けた気がする」。天空の城・朝来市の竹田城も近い多可町。なにもないところですが、うまい焼き鳥屋があるんですよ……という河上から、帰京後にメールが届いた。

『多可町に元気、勇気、そして町おこしを野球という手段で貢献するつもりです。東京で飲みましょう!』

いえいえ東京じゃなく、多可町の"うまい焼き鳥屋"で、ぜひ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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