神宮で見つけた来春センバツのヒーロー候補②奥村頼人&織田翔希(横浜)
スタンドが、大きくどよめいた。
明治神宮大会の準決勝・横浜(神奈川)と東洋大姫路(兵庫)。関東と近畿王者の見応えある一戦は、8回に姫路が1対1の同点に追いつき、タイブレークにもつれた。10回、姫路のエース・阪下漣は、バントと申告敬遠などで2死満塁のピンチを招くが、ここをしのぐとその裏の姫路。やはりバントと申告敬遠で1死満塁と、絶好のサヨナラ機を迎える。するとここで、横浜・村田浩明監督が動いた。
先発し、レフトを守っていた奥村頼人が6回から再登板していた横浜は、レフトに大石宙汰を入れていたが、その大石に代えて投入したのが林田滉生だ。ただし、林田は内野手。村田監督はその林田に二塁ベースの後方を守らせ、内野を5人にしたのだ。つまり、レフトはがら空きである。これに、神宮大会では異例といえる1万5000人のスタンドがどよめいたわけだ。
「相手の打者(阪下)が、レフトには引っ張れない」と判断した村田監督。ゴロで外野に抜けるリスクを極力減らすための、内野5人シフトだ。マウンドの奥村頼は、同じ近畿地区のボーイズ時代にしのぎを削った打席の阪下を見ながら、こう考えていた。
「外野フライも許されない場面で、一番ほしいのはリスクの少ない三振。絶対に打たれるわけにはいかない」
その通り、最後は144キロのまっすぐで阪下を三振に取った奥村頼は後続も抑えると、1点を勝ち越した11回表には、さらに追加点のタイムリー。その裏の無死満塁を無失点で切り抜け、優勝に大きく近づいた。そして決勝では、先発した織田翔希が9回途中までを自責1、最後は奥村頼が締め、横浜が27年ぶりの神宮大会優勝を飾ることになる。
秋15連勝は松坂世代の年間4冠と同じ
27年前といえば、松坂大輔(元西武など)をエースに、春夏連覇を飾った年代だ。福岡・北九州市立足立中学3年時に軟式で最速143キロをたたき出し、多くの高校から誘われた織田。あこがれはその松坂で、「松坂さんのようになりたくて」横浜に進んだ。
体が大きくなるとともに、技術も「投げるたびに成長している」(村田監督)。秋季県大会では、中盤以降にスピードが落ちてマウンドを降りることがあったが、関東大会では東農大二(群馬)との初戦に先発。「短い距離のダッシュや投げ込みの量を増やして体力をつけてた」成果か、高校初完投を2安打完封で飾っている。神宮でも、明徳義塾(高知)との初戦ではこの日の最速145キロのまっすぐを軸に、2安打で完封。
「明徳打線には、徹底力を感じました。どんどん向かってきて……でも投げきることを監督と約束して、それを果たすことができました」と初々しいが、「投げるボールには自信を持っているので、そこはびびらず」と大物ぶりも同居する。甲子園で松坂のいた横浜と対戦経験のある明徳・馬淵史郎監督も「球に角度があるし、足腰が強くなったらもっと伸びる可能性がある」と将来を期待するふうだ。
「世間では"織田、織田"といわれていますが、背番号1は自分。完封したのをレフトから見ていて悔しかった」と、奥村頼は1年生にライバル意識を隠さない。ちなみに神宮大会では、織田が21回3分の2を投げて自責点1、奥村頼が7回3分の2で自責0。大会初日、神宮で出会ったある監督は、「優勝は横浜でしょ」と予想していたが、2人がその両輪であることは間違いない。