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【富田林市】黒船来航前にあの吉田松陰が富田林寺内町に滞在!なぜ長州から来たの?その足跡をまとめてみた

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

富田林寺内町には、杉山家住宅のように内部が公開されている建物のほか、現在も所有者の方が住んでいる家など、内部非公開の建物があります。

そんな中、普段は非公開の建物内部が見学できるという「富田林寺内町伝統建築見学ツアー」が3月に実施されたので、参加してきました。

その中の建物のひとつ、仲村家を見学した際のこと。幕末に活躍した吉田松陰との接点が仲村家にあることを知ります。同じツアーの参加者の人たちも、「長州は遠いのに、なんで来たんやろう?」と口々に疑問を。

私も同じように思いましたので、それから詳しく調べてみることにしました。そうすると、興味深い事実が次々と出てきましので、彼の富田林での足跡をまとめてみようと思います。

吉田松陰
吉田松陰

吉田松陰と言えば、長州藩(現在の山口県)の武士で、思想家や教育家、かつ山鹿流(やまがりゅう)兵学(=軍事の勉強)の師範であった人物。松下村塾を開き、幕末や明治維新で活躍する長州藩出身者の若者たちを教えていたことは、あまりにも有名です。

松下村塾で教える前の松陰は、まだ若い20代のころ、兵法を習得した後さらなる学びを求めて諸国を歩いて旅していました。

九州の平戸藩では、アヘン戦争のことを知って西洋の恐ろしさを知り、江戸に出た際には、佐久間象山(さくましょうざん)らから西洋兵学を学んだそうです。

1852(嘉永5)年には東北にも行き、津軽海峡を通行する外国船を見学するなど、西洋とのかかわりを非常に意識していました。

ところが東北に行った際に、藩の許可(通行手形)発行の前に旅立ったために脱藩者とみなされてしまい、士籍(武士の身分)の剥奪・世禄(世襲の家禄)没収の処分を受けました。

その後1853(嘉永6)年6月にペリー艦隊(黒船)が浦賀沖に来航した時に、松陰は佐久間象山とそれを遠望観察した記録があるのですが、その前に松陰は富田林寺内町の仲村家に立ち寄ったというのです。いったい何をするために彼は寺内町に来たのでしょう?

調べると、松陰は再び遊学の許可を長州藩からもらうと、1853年の1月に長州藩の萩を出発し大坂(大阪)に来ていたそうで、そこで坂本鉱(鉉)之助や後藤松陰らと会っています。

その後、吉田松陰は大和に向かいました。それは五條に住んでいる森田節斎(もりたせっさい)という人物に会うためです。

これは東北・奥羽に旅をした時に出会った江幡五郎という人が節斎の弟子(門人)で、五郎が松陰にあることを節斎に伝えるように頼まれたためです。とはいえ、松陰自身も節斎に会うことが楽しみだったようで、出会ってから彼の弟子として学びもしました。

森田節斎
森田節斎

森田節斎は、五條出身の医者であり儒学者、教育者でもある人物。当時20歳代前半だった松陰が五條に来たのは、2月13日でした。対して節斎は40歳代。ところが節斎は、この次の日、14日に五條から富田林に行く予定がありました。

富田林寺内町にあった仲村家は、寺内町を作った富田林八人衆の子孫と伝えられる家柄。享保年間から「佐渡屋」という屋号をもち、1785(正徳5)年に酒造株を手に入れてからは、造り酒屋を営んでいました。

このころ佐渡屋(仲村家)では、泉州熊取の岸和田藩の大庄屋・中家との婚姻が結ばれたのですが、このころ両家の間でトラブルがあったとか。そこで当主の佐渡屋徳兵衛は、節斎に調停を依頼してきたのです。

富田林出発の前日に松陰が訪ねて来たこともあり、「それならば」と、松陰は節斎と富田林に一緒に行くことになりました。

14日、五條から富田林に向かう途中について、松陰が記した日記「癸丑遊歴目録(きちゅうゆうれきもくろく)」の一部を引用します。

「十四日、晴、節斎に従ひて錦部郡(※石川郡の誤り)富田林の仲村徳兵衛の家に至る。増田久左衛門も亦従ふ。五条の駅を出でて千早に登る。山は頗る高峻にして、千早城ははてに在り。金胎寺・赤坂・嶽山の数砦、前に列り、連珠の塁を為す。山を下れば即ち千早村なり。村を過ぎ、富田林に至る。行程六里

千早城跡に建つ千早神社
千早城跡に建つ千早神社

松陰と節斎は、14日の朝に五條を出発し、峠を越えて河内国に入り、千早(窟)城跡に登ったようです。節斎は、海防や尊皇思想に関心深い尊王攘夷(そんのうじょうい)思想の持ち主で、尊皇攘夷論では総帥なども努めていたほどの人物。

千早城跡に建つ千早神社
千早城跡に建つ千早神社

そのようなこともあり、遠くから訪ねてきた若者である松陰に、節斎は帝(みかど)のために戦った楠木正成由来の地を、あえて途中で案内したのかもしれません。

「金胎(体)寺・赤坂・嶽山の数砦」と書いているのは楠木七城と呼ばれるものなので、松陰も正成に想いを馳せたのでしょう。

千早城を降りて、千早村を経由して富田林までの行程については詳しく書いていないのでルートは想像しかできませんが、松陰は14日から23日まで佐渡屋(仲村家)にいたとか。そのとき、中国や空海の書、雪舟の龍虎図などを見たそうです。

23日以降は節斎とともに岸和田に向かい、佐渡屋のトラブルの相手、中家とのやりとりが行われました。それと同時に地元の学者との議論を行うなどをしたそうで、3月18日に佐渡屋に戻ります。

4月に佐渡屋から離れた松陰は、その後もしばらく節斎の五條にとどまっていましたが、6月に江戸に向かって出発。そして浦賀沖で黒船に遭遇しました。

水郡家
水郡家

ということで吉田松陰が富田林寺内町に来た経緯をまとめました。松陰が富田林に来たことで、後に天誅組が尊王攘夷の拠点として甲田の水郡(にごり)家から河内長野を経由して、五條で決起したのも影響したのではという気がします。

仲村家住宅
住所:大阪府富田林市富田林町16-31
アクセス:近鉄富田林駅から徒歩8分

奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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