【富田林市】市役所南に今も当時の姿で。甲田地区の「水郡邸」は明治維新のさきがけ、尊王攘夷派の館でした
富田林に残る昔ながらの町並みといえば、今や寺内町があまりにも有名。しかし市役所の南側、東高野街道の甲田(こうだ)地区にも、歴史の重要な一幕(ひとまく)を刻んだ場所として、歴史好きにはかなり有名な場所があります。
その名も、大阪府指定史跡「水郡(にごり)邸」。建物そのものの歴史的価値だけでなく明治維新に重要な役割を果たした場所として、そのエピソードが今も語り継がれています。
それは、幕末の時代に、尊王攘夷(そんのうじょうい)の急先鋒、天誅組(てんちゅうぐみ)が作戦を練った場所として、今も屋敷が残っているためです。
黒船来航後に鎖国を解いた国内では、それに反対する尊王攘夷の嵐が吹き荒れていました。尊王攘夷とは、天皇を敬い外敵である外国人を排斥しようという運動のこと。水郡家の当主で、水郡善之祐(にごりぜんのすけ)も、その中のひとりです。
水郡善之祐は、伊勢国神戸藩の大庄屋であり、水郡神社(現在の錦織神社)の神主も務めていました。
水郡家(旧姓喜田)は、代々、勤皇(天皇を尊び幕府を倒したいとの考え)の思想を持っていたようで、自分を犠牲にしてもその政治的目的を果たしたいと考える志士たちを金銭的に援助していたそうです。
文久3年(1863)8月13日、尊王攘夷派が「大和行幸の詔(やまとぎょうこうのみことのり)」を企図。孝明天皇みずからが大和にある初代天皇である神武天皇陵を参拝したうえで戦いに立ち向かうという過激なもの。
その先発隊として、公卿の中山忠光をリーダーとして天誅組(てんちゅうぐみ)を立ち上げ、8月17日、京都からこの甲田までやって来ました。
善之祐は、かねてより用意していた菊の紋章の旗、幟や武具、食料などを天誅組に提供。中山らはそのまま水郡邸で1泊し、戦術会議を行いました。
翌日の早朝、善之祐は、息子の英太郎(当時13歳)と周辺村からの同士10数名とともに天誅組ろ行動を共に。そのまま河内長野に行き、観心寺の楠木正成の首塚の前で決起大会までしたそうです。
その後、山を越えて幕府直轄だった五條の代官所を襲撃。しかし同日、京都では「八月十八日の政変」が起こり、薩摩藩ら攘夷穏健派が長州藩ら攘夷急進派を追い落とすという事態に。
その影響で、天皇の神武天皇陵参拝と親征は中止。代官所を襲撃した天誅組は、逆に賊軍となって幕府から攻撃され、やがて壊滅状態に。善之祐も、志半ばで京都で処刑されてしまいます。これは明治維新の5年前のことでした。
この天誅組の事件、倒幕運動における初の組織的武力蜂起は、明治維新を語るうえでの重要な史実のひとつ。まさに時代が急変する前日、天誅組が泊まった水郡邸は、昭和49年に、大阪府大阪府指定文化財として史跡指定されています。
建物の前に説明版があり、この建物がまさに貴重な文化財であることがわかるようになっています。
歴史的に見てもとても価値のあるこの水郡邸ですが、現存する建物自体もかなり歴史あるものです。
江戸初期に建てられたものとされていますが、1773(安永2)年に別の場所から移築。見た目はごく普通の屋敷ですが、実は城の護衛が隠れるような武者隠しや押し入れから外部に出られるような特殊な造りとなっているそうです。
しかし残念ながら、内部は非公開。立派な門構え、塀の長さから想像できる敷地の大きさから、大庄屋だったことが今も伺えます。
水郡邸を訪れたのは秋分の日。ちょうど敷地内の柿の木からは、見た目からして美味しそうな柿の実が、たくさん色づいていました。
水郡邸
住所:大阪府富田林市甲田2丁目5-31
営業時間:24時間 内部見学不可
定休日:無休
アクセス:近鉄川西駅から徒歩6分