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2年連続最多勝左腕・内海哲也、敦賀気比高時代の不運とは……

楊順行スポーツライター
2013年WBCでの内海哲也(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

「そりゃあね……落ち込みました。なんでやねん! と思いましたよ。センバツを楽しみに、つらいトレーニングに歯を食いしばってきたのはなんやったんやろう、って。だけど、悔しいから(中継を)見るもんか、と思っていたセンバツのニュースが、やっぱり目に入る。そこでは香月(良太・柳川[福岡]、元巨人など)や優勝投手の筑川(利希也・東海大相模[神奈川])とか、昨年暮れの高校選抜の台湾遠征で知り合った仲間が、気持ちよさそうに投げているんです。たまらずに電話をかけると、“甲子園には、自分の力以上のものを発揮させてくれるパワーがある”と口をそろえる。香月なんか、“甲子園のマウンドは、固くて投げやすい”って。だから知らず知らずに刺激され、僕もその甲子園パワーを味わいたいと、痛切に思いました」

 2000年の夏前のことである。敦賀気比(福井)にたずねた内海哲也は、「お久しぶりです!」と元気な笑顔を見せてくれた。

 選抜高校野球を目前にしていたこの年3月7日。野球部員が飲酒運転し、事故を引き起こしたことで、敦賀気比はすでに決定していた大会への出場を辞退した。高野連からの処分は警告(当時の監督、部長は謹慎)で、出場はおとがめなしだったのに、学校側が自主規制したのだ。

「なんでやねん!」のセンバツ出場辞退

 1999年秋、内海のドクターKぶりはすさまじかった。143キロのストレートと鋭いカーブを武器に、公式戦84回を投げて134三振。アウトの半分以上を三振で奪い、敦賀気比をぶっちぎりの北信越王者に導く。練習試合では、全国トップクラスの三重・海星から23三振を奪ったこともある。当然、センバツ当確。だれもが、ウワサの快腕を甲子園で見たかった。

 ファンがそうなのだから、本人にはなおさら「なんでやねん!」だろう。自分が打ち込まれて甲子園への道が閉ざされるのならまだ納得がいくが、自分では制御できない出場辞退だからやるせない。だが内海は、最後の夏だけを見ることにした。

「センバツに出られずにヤケになりそうでしたけど、あと1回、夏にチャンスがあるわけじゃないですか。そう思ったら、ウジウジしている場合じゃないでしょう」

 センバツ後の内海。モチベーションを失わずにトレーニングを積んだことで、気づいたら体重は5キロアップし、比例して球速も増した。さらに、

「トレーニングで、フォームが固まってきたと思います。以前は、投げてみなければストライクが入るかどうかわからずに制球が不安だったのが、いまはマウンドに行くのが楽しみなんです」

 全国屈指のスラッガーで、バッテリーを組んでいた李景一(元巨人)もこう証言する。

「シートバッティングで内海が投げたら、悔しいけど打てません。とにかく、コントロールがよくなりました」

 となると春の福井県大会は貫録勝ちだ。久々の公式戦だった3回戦こそ3点を失ったが、準決勝は9者連続三振、福井商との決勝戦でも余裕の6回10三振である。

「出場辞退になっても応援してくれた人たちに恩返ししたい。カッコいいじゃないですか、辞退から立ち直って甲子園に行ったら、ね」

 その夏の敦賀気比は順当に決勝まで進出。だが福井商に延長10回で敗れたから、高校時代の内海は結局、甲子園とは無縁だったのだが。

 野球を始めた小学生時代、祖父・五十雄さんのヒザの上で、よくテレビの野球中継を見た。五十雄さんは、38〜39年とジャイアンツの野手。00年のドラフトでオリックスに1位指名された内海は入団を拒否し、東京ガスでの3年間を経て03年、巨人入りを果たすことになる。以来19年。お疲れ様でした。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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