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【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼家は死んだことにされ、弟の千幡が新将軍になった裏事情

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
策謀家だった北条時政。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の31回目では、源頼家が病に斃れた。しかし、頼家は死んでいないにもかかわらず、弟の千幡が新将軍になったが、その点について詳しく掘り下げてみよう。

■源頼家は死んだのか

 建仁3年(1203)9月2日、比企能員は謀反を企んだとして、北条時政によって討たれた。これにより、能員ら比企一族は滅亡し、頼家の嫡子・一幡も亡くなった(逃亡したとの説もある)。

 頼家は病に伏せていたが、奇跡的に回復した。そして、能員や一幡の死を知った。そこで9月6日、頼家は北条時政を討つべく、和田義盛と仁田忠常に命じるが、この計画は失敗に終わった。

 9月7日以前、北条政子は頼家の病が回復しないと考え、臨終出家させた。臨終出家とは本格的に僧侶になるのではなく、死に際して極楽浄土に行くことを願い、形だけの出家をすることだ。頼家がまだ昏睡状態にあったときの話だろう。

 『猪熊関白記』同年9月7日条には、頼家が9月1日に亡くなったと記している。代わりに征夷大将軍に就任したのは、千幡つまり実朝である。実朝は12歳の少年だった。時政は頼家が生きていたにもかかわらず、手続きを先に進めていたと考えられる。 

 頼家の死と実朝が新将軍に就任したことは、『明月記』、『業資王記』にも書かれている。この情報は幕府からもたらされたのだから、信じて書き記すのは致し方ない。頼家が亡くなったのは、翌年の元久元年(1204)7月18日のことである。

■『吾妻鏡』などの記述

 編纂物とはいえ、『吾妻鏡』建仁3年(1203)9月15日条を読むと、9月7日付で朝廷から従五位下の位記(辞令)、征夷大将軍に任じるとの宣旨が届いたことを記録する。もはや、頼家の形跡はない。

 ほかの二次史料も頼家の死と実朝の新将軍就任を記録しているが、日付に異なる点がある。『一代要記』は、同年10月に頼家が亡くなり、実朝が新将軍に就任したが、10月23日に頼家が蘇生したので、出家したと伝えている。

 『愚管抄』は、同年8月に頼家が病気になったので大江広元に預け、千幡を元服させて実朝と名乗らせたという。そして、同年12月8日に征夷大将軍に任じるとの宣旨が届いたという。

 いずれにしても、頼家が重篤とはいえ、存命中だったにもかかわらず、千幡を新将軍として擁立したのはたしかである。朝廷としては、幕府の意向を汲まねばならなかったのだろう。つまり、頼家の生死やその後の時政討伐計画にもかかわらず、千幡の擁立は既定路線だったのだ。

■まとめ

 比企一族の討滅から、千幡を新将軍に擁立する流れは、急に決まったことではないだろう。つまり、北条時政は、事前に周到な計画を練っていたと考えざるを得ない。

 一つの誤算は頼家が急に病から回復したことで、その後の頼家の修禅寺幽閉から殺害までの流れは想定外だったのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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