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伊藤詩織のドキュメンタリー映画はオスカーを狙えるか

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
「Black Box Diaries」(Sundance Institute)

 性暴力に対し勇気を持って立ち上がり、世界から注目された日本人ジャーナリスト、伊藤詩織の監督デビュー作「Black Box Diaries」が、アワードシーズンに健闘しそうな気配だ。

 世界プレミアは、今年1月のサンダンス映画祭。その後も多くの映画祭で上映され、ニュージーランド国際映画祭とサラエボ映画祭では観客賞、サンフランシスコ国際映画祭では審査員特別賞(ドキュメンタリー部門)、CPH:DOXでは人権賞を受賞した。

 アメリカの劇場配給権は、MTVドキュメンタリー・フィルムズが獲得。同社は、やはりサンダンスで初上映されたドキュメンタリー映画「エターナルメモリー」を、見事、今年のオスカーに候補入りさせている。

 彼らが「Black Box Diaries」にも期待をかけているのは、公開計画にも明白。まずは10月25日にニューヨークのフィルム・フォーラムで、その1週間後にロサンゼルス、サンフランシスコ、シカゴの劇場で公開という流れ。投票者の記憶に残りやすい10月後半以降は、賞を狙う上で理想的だ。現地時間25日には予告編も解禁された。主要な賞の投票者にはスクリーナーも送られている。

 2015年、伊藤氏が当時TBSの政治部記者でワシントン支局長だった山口敬之にレイプされ、2022年1月、民事裁判の二審で勝訴するまでを追うドキュメンタリー。伊藤氏は2017年に手記「Black Box」を出版しているが、この映画には、警察、弁護士、家族らと電話で会話する様子や、本人、親しい友人らがその時その時に思いを語る様子の映像が出てきて、プライベートな部分、感情面によって空白が埋められる。

自殺まで考えた胸の内を赤裸々に見せる

 映画は、事件の夜、ふたりをシェラトン都ホテルまで乗せたタクシー運転手の証言でスタート。運転手によれば、目的地は最初、目黒駅だったが、途中で男性がホテルに行ってくれと言ってきた。意識がもうろうとしている女性は、2度か3度、駅で降ろしてほしいと言ったという。ホテルに着いても女性は降りたがらず、男性は女性を抱えるようにして無理やり車から引きずり降ろした。次に出てくるホテルの防犯ビデオは、そんな運転手の証言を証明する。防犯ビデオには、歩くことができない伊藤氏を山口が支えてロビーを横切っていく姿も映っている。

 このように冒頭で伊藤氏の主張が真実であることをはっきりさせた上で、映画は、警察が最初は被害届すら受け付けてくれなかったこと、逮捕状が出て刑事が成田空港で待ち受けていたにもかかわらず突如上からストップがかかったこと、伊藤氏が顔と名前を出して記者会見を行うと、服装について世間から批判されたりしたことなどを見せていく。それでもあきらめなかったのは、被害者としてだけこの出来事に向き合うと押しつぶされてしまう、ジャーナリストとして真実を追いかけなければとの意志があったからだ。

 映像の中で、彼女は強く、しっかりとしていて、笑顔も見せる。記者会見の後に自撮りしたビデオでは、自分が自殺をすることはないので、何かあったら捜査してほしいと紙に書いておいたと明かしている。しかし、それからしばらく経ったある時、彼女は、両親に向け、泣きながら、「これまで育ててくれてありがとう。情けないけれど、どう耐えたらいいのかわからなくなってしまいました。いただいた命をまっとうできなくて本当にごめんなさい」と、遺書とも言えるビデオメッセージを録画しているのだ。それは、感動するシーンがたくさんあるこの映画でも、そこは最も胸を揺さぶられるシーンかもしれない。

まだまだ見落とされている点がある、重要なテーマ

 さて、前述したように、この映画はすでにいくつかの映画祭で賞を得ているが、オスカーの可能性はどれほどだろうか。オスカーまでは5ヶ月以上あり、有力作が絞られてくるのはまだまだこれから。とは言え、この作品には希望を持つ理由があると、筆者は考える。

 ひとつは、何よりテーマ。「#MeToo」が起きて7年になるが、性暴力、性加害者の責任という問題に関しては、まだまだ隠され、見落とされ、論議をされていない部分がたっぷりあるのだ。

 今年のオスカーでドキュメンタリー部門に候補入りした「虎を仕留めるために」(Netflixが全世界配信。ただしNetflixは、オスカーノミネーションが発表された後に今作を買っている)は、13歳の娘を3人の知り合いの男にレイプされたインドの父親が立ち上がる話だった。レイプされたことを警察に届けるなどその村では考えられないことで、女性たちを含め、みんなから反対されるが、父親は正義を貫こうとする。映画完成時に20歳になっていた被害者は、自分の経験がほかの女性たちの助けになることを願い、映画に出ることを決めたのだという。彼女の願い通り、この傑作は、広い世界ではまだこういうことが起きているのだという事実を見せつけ、観た人の問題意識を高めた。

「Black Box Diaries」も、共通するメッセージを持つ。似たような経験をした人は自分だけではないのだと感じ、そうでない人は、こんなことを絶対に許してはならないと、何をするべきなのかを考える。サンダンス映画祭のQ&Aの最後で、会場にいた女性は、「私は、あなたと同じような経験をしました。あなたのことを本当に尊敬します。(映画でのあなたは)より良いバージョンの私自身です」と、涙ながらに伊藤氏に感謝を述べた。そんなパワーが、この映画にはある。

現段階で100%の批評家が高く評価

 次に、批評家の評が非常に良い。Rottentomatoes.comによれば、映画を見た批評家の100%が褒めている。批評を書いたのはまだ35人と少ないため、アメリカでの劇場公開に合わせて増えていく中では母数が上がるためにやや落ちていったとしても不自然ではないが、そう極端に変わることはないと思われる。

 日本の話であることが、アメリカの話に比べて不利になるということは、ないだろう。実際、今年のオスカーで、ドキュメンタリー部門の候補作5作は、すべて外国の映画だったのだ。多様化を目的にアメリカ国外に住む投票者を増やしたおかげだが、今のアカデミーは、数年前に比べればずっと視野が広く、外国語の作品に抵抗がなくなっている。しかも、伊藤氏はバイリンガルなので、「Black Box Diaries」はおよそ半分が英語。ずっと字幕というわけではない。

 何はともあれ、一番大事なのは、一般観客、投票者を問わず、映画をできるだけたくさんの人に見てもらうことだ。そして、観た人たちが、感想を語り合うこと。

 賞は、その先にある。今年1月にサンダンスで始まったこの映画のジャーニーは、どこまで続くだろうか。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「シュプール」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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