3度目の挑戦で海外を制した男が、ノームコアにかけたお別れの言葉とは?
父同様、騎手となった後、調教助手に
外から伸びて来た白い馬体の脚色が優勢だ。着差は大きくはなかったがゴールに入る前に勝負は決していた。
「札幌記念と同じ感じで直線に入った時にはもう勝ち負けを確信出来ました。そして、ゴールに入る前に勝てたのが分かりました」
ゴール板付近のコース脇で観戦し、そう思ったのは南田雅昭。美浦・萩原清厩舎で調教助手を務める彼にとって3度目の海外遠征だった。
南田は1984年生まれの36歳。父・美知雄は元騎手で現調教師。母・妙子の間に茨城で生を受け、13歳離れた兄と育てられた。中学卒業後、競馬学校に入学。石橋脩や松岡正海らと共に2003年、騎手デビューを果たした。しかし……。
「競馬学校2年生の時に身長が20センチも伸びてしまい、その後は体重管理だけでも苦労しました」
結果、ジョッキーとしては思い描いた成績を残せなかった。
「騎手でいたい気持ちはあったので障害にも挑戦したけど、最終的には生活を考えて引退を決意しました」
11年3月に鞭を置き、萩原の下で調教助手になると、いきなり成長力を感じさせる馬と出合った。後に金鯱賞(G2、15年)等を勝つミトラだった。
「乗り始めたのは未勝利の頃でした。ヒョロっとしていたのに最後は力強くなった。成長過程を知れて、勉強になりました」
初めての海外遠征は思わぬ結果に
ミトラが引退すると、バトンを受け取るようなタイミングで厩舎に来たのがエピカリスだった。
「ダートでデビューすると4連勝。ドバイのUAEダービーに挑戦した時、僕は日本に残ってテレビ観戦をしていました。僅差の2着には思わず声が出ました」
次なる1戦はアメリカ。3冠レースの最終関門、ベルモントS(G1)だった。南田は萩原からアメリカ入りを命ぜられた。
「そうは出来ない経験なので行かせていただきました。輸送も現地での調整もうまく行き、期待していました」
悲劇が起きたのはレースの3日前。蹄に違和感が生じた。その後は現地にいる皆で何とか出走出来るよう力を合わせた。南田はレース前夜、厩舎に泊まり込み、寝ずに脚を冷やした。しかし、想いは通じなかった。現地の獣医師からゴーサインが下りず、戦わずして終戦を迎えた。
「好勝負出来ると思っていただけに悔しかったです。まさかの結末に萩原先生もがっかりして残念そうでした」
乗りやすくはなかったが成長を感じたノームコア
その約1ケ月後にデビューしたのがノームコアだった。この芦毛の牝馬はデビューから2連勝したが、3歳の春はフラワーC(G3)3着、フローラS(G2)3着とあと一歩のところで大一番に辿り着けなかった。
「掛かる面があり、決して乗りやすい馬ではありませんでした」と南田。
しかし、夏を越すと「芯が入って来た」と萩原。南田も首肯して言った。
「細い感じだったのに、秋にはドシッとして立派になりました」
結果、紫苑S(G3)で重賞初制覇。レース間隔を考慮して秋華賞(G1)ではなくエリザベス女王杯(G1)に挑むとリスグラシューの5着と善戦。これには指揮官も「一線級相手でも目処のつく内容でした」と及第点。その後、愛知杯(G3)、中山牝馬S(G3)はいずれも1番人気に支持されたがそれぞれ2、7着に敗れた。
「中山牝馬Sは詰まって終わっちゃいました。これが競馬だから仕方ないという負け方で、決して能力が劣っていたという内容ではなかったので、続く1戦でも変わらず期待はしていました」
その気持ちにパートナーが応えた。続く1戦、すなわち19年のヴィクトリアマイル(G1)を、騎乗停止中のC・ルメールの代役D・レーンを背に見事に優勝したのだ。
「速い時計の出やすい馬場といえ、1分30秒5のレコードには驚きました。同時にやはりG1レベルだったと改めて証明出来て嬉しかったです」
G1馬となり最初の香港遠征
G1馬となったノームコアは秋にも富士S(G3)を快勝。勢いに乗って香港へ渡り、香港マイル(G1)に挑戦した。これが南田にとってはエピカリス以来の海外遠征となった。
「馬も違うし、国も違うので、行ってみないと分からないと気を引き締めて臨みました」
現地では競馬場での調教。
「競馬と勘違いしたのか初日は掛かりました。でも、徐々に落ち着いたので、体は問題なく仕上がりました」
しかし、結果は同じ日本馬アドマイヤマーズの4着に敗れた。
「ヴィクトリアマイルは1度グッと抑えてから行く感じだったけど、この時はそういう場面がありませんでした。1度も落ち着かないままという流れがノームコアには向きませんでした」
ラストランを飾った香港でのお別れ
こうして初海外は苦い思い出となったノームコアだが、帰国後の昨春はヴィクトリアマイル(G1)がアーモンドアイの3着、安田記念(G1)はグランアレグリアの4着。強敵を相手にいずれもそれなりの走りを披露。続く札幌記念(G2)では1番人気に推されたラッキーライラックを撃破して勝利してみせた。
「安田記念ではアーモンドアイと差なくゴールしていたので、この時は自信しかありませんでした。だから結果に関しても“やっぱり”という気持ちでした」
エリザベス女王杯(G1)は16着に沈んだ後、正式に2年連続での香港遠征を萩原から言い渡された。
「女王杯は初めて脚をためられずに逃げる形になってしまったので着順は気になりませんでした。デキ落ちの感じはなかったし、女王杯の前から次は香港という話も出ていたので『分かりました』とだけ答えました」
時はコロナ禍の真っ最中。そのあたりの不安はなかったのか?
「現地では外出禁止で、帰国後も2週間は自主隔離と言われたけど元々ジッとしているのは苦にならない性格なので何とも思いませんでした。それよりもノームコアの力を香港で発揮させてくれるチャンスをもらえるなら、行きたいと考えました」
調教師は日本に残り、南田は厩務員の磯部和人と現地入りした。
「ノームコアに関しては普段から自由にやらせてもらっていたので先生がいない事は特にプレッシャーになりませんでした。磯部さんも常に一所懸命で、細かいところにも気付いてケアしてくださるベテランなので心強かったです」
ノームコア自身は前年同様、初日は「やはりカッとした」と言う。しかし、海外3度目となる南田はこの点も対策を練っていた。
「気が入り過ぎると体をかたくするタイプなので、出国前からそうならないように手を打ち、ある程度、仕上げておきました」
他にも「マイクロウェーブがいきなり煙を吹いた」という前年を受け、この年は変圧器を持参するなど、多方面にわたり経験を生かすと「良い状態で仕上がった」(南田)。
それでも海外遠征にアクシデントは付き物。騎乗予定だったC・スミヨンがコロナの再検査を要請されたため、急きょZ・パートンに乗り替わりになった。しかし、南田は慌てなかった。
「『調教に乗れる』と連絡があったけど、掛かって悪いイメージで競馬に行かれるのは嫌だったので、断りました」
それよりも自分の仕事である「とにかく万全の良い状態でバトンを渡す」事を心掛けた。その結果、シャティン競馬場の2000メートルで、ノームコアは誰よりも速く走り、真っ先にゴールを駆け抜けてみせた。
「海外のレースに挑戦するだけでもなかなか出来る事ではありません。そこでG1を勝てたのは格別な嬉しさがありました」
まして初めての海外挑戦がゲートインも出来ずに終わっていた事に加え、ノームコアにとってはこれがラストランだったのだから、南田の感情が揺さぶられるのは容易に察しがつく。
「有終の美を飾って無事に繁殖に上がれたのは、普段、難しくてしんどい思いをして乗ってきた甲斐があったというものです」
「本当によく頑張って走ってくれた」と言い、香港で芦毛の彼女と最後のお別れをした。12月8日の誕生日を現地で1人、過ごした南田は“最高の誕生日プレゼント”を届けてくれたノームコアを、お礼と共に送り出した。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)