【平昌五輪スキー】エアリアル代表の田原直哉に体操界から大エール
37歳にして初の五輪舞台に立つ苦労人に今、大いなるエールが降り注いでいる。平昌五輪フリースタイルスキー・エアリアル日本代表の田原(たばら)直哉は、体操で五輪出場を目指していたがかなわず、社会人4年目の06年に体操からエアリアルに転向した異色のアスリートだ。
小2から入った和歌山オレンジ体操クラブでは、後に白井健三(日体大)を中高時代5年間にわたって指導した水口晴雄コーチ(現鶴見ジュニア体操クラブコーチ)から技を仕込まれた。3人そろって12年ロンドン五輪出場の快挙を成し遂げた「田中3きょうだい」は、和歌山オレンジ体操クラブや和歌山北高校の後輩だ。
高校卒業後に日体大に進学した田原は、同学年の水鳥寿思さんとライバルとして競い合い、2003年に出たユニバーシアード大会では団体銅メダル、個人総合12位などの実績を残した。そして、最大の目標である2004年アテネ五輪を目指した。
しかし、社会人の強豪・徳洲会体操クラブに入って2年目に行なわれたアテネ五輪の代表入りを逃した。小学校時代から張り合っていた同い年の冨田洋之さん、鹿島丈博さん、水鳥さんが団体金メダルに輝く姿はまぶし過ぎた。
エアリアルという競技を知ったのは06年2月だ。徳洲会体操クラブで行なっていた合宿中に、水鳥さんや、3歳上の米田功さんらと一緒に偶然テレビで見たトリノ五輪エアリアルに惹きつけられた。「これならやれるんじゃないか」。そう思った。米田さんや水鳥さんも「お前なら行けるよ!」と後押しした。
一念発起して、エアリアルに転向。そして、田原は夢をかなえた。ただし、振り返れば12年もの月日が流れていた。
■水口晴雄コーチが語る田原
鶴見ジュニア体操クラブの水口コーチは、和歌山オレンジ体操クラブで田原を小2から高3まで指導した。また、田原にとって体操選手として最後の試合となった06年の国体近畿ブロック予選では、和歌山チームの監督としてメンバーを率いた。
「田原は小学校のころからすごく感覚の良い子でした。今でも彼より感覚の良い子は見たことないくらい。感覚では内村航平選手以上だと思いますね」
いわば、田原は「技の天才」だった。高校生で鉄棒のG難度技であるカッシーナや連続コバチ、F難度の降り技・フェドルチェンコ(後方伸身2回宙返り3回ひねり下り)をやっていた。
中でも驚異の高難度技だったのは、床運動で現在は禁止技になっている『伸身リピスキー』だ。どれくらい難しいかをH難度の『シライ3(伸身リ・ジョンソン)』と比較してみると、シライ3が「伸身2回宙返り3回ひねり」であるのに対し、伸身リピスキーは「伸身2回宙返り2回半ひねりをしながらの前転」。
水口コーチは「あれはH難度以上でしょう。世界でも田原しかやっていませんでした。(五輪や世界選手権で成功すれば)『タバラ』と名がつく技です」と説明する。
ただし、身体が硬いという弱点があった。その弱点が田原を苦しめた。
「でも、今の時代に彼がいたら代表になっているのではないかと思います。時代が彼に合わなかった」
エアリアルへの転向を聞いたときはさすがに驚いた。「お前、スキーは滑れないだろう」。水口コーチが尋ねると、田原は「はい」とうなづいた。
田原の五輪出場が決まった後、水口コーチは目を細めてこう言った。
「スキーができないので時間がかかるとは思いました。こうしてやっと一番上の試合に出られるのですから、自分が今までやってきたことを後悔ないようにやってほしい。それにしても、体操からスキー・エアリアルへの転向はすごいことだと思います。しかも大学を卒業して社会人になった後の転向ですから」
■田中佑典「和歌山県の後輩として応援しています」
田原より9歳下の田中佑典(ロンドン五輪団体銀メダル、リオデジャネイロ五輪団体金メダル)にとって、田原は「和歌山オレンジ体操クラブに入ったときの大先輩」だ。
「すごくあこがれの目で見ていました。オレンジ体操クラブから日体大、徳洲会と進んで、社会人でやっているのがかっこいいなと思って、お手本にさせていただきました」
中でも最もかっこよく見えたのは鉄棒だ。体操選手として田中自身とタイプは違えど、感じることは多かった。
「田原さんのダイナミックなコバチにあこがれて、そこで僕も鉄棒をうまくなりたいと思いました。空中感覚はすごいと思います。聞くと、エアリアルと体操では、ひねりの技術が違うらしいのですが、ダイナミックさの部分では通じているでしょう。あの高さから滑るには度胸も必要でしょうし、肝も据わっているのだと思います。和歌山の後輩として期待しています」
■内村航平「根性がすごい」
日体大の後輩である内村航平もエールを送っている。学年で言うと8つ下である。
「田原さんが現役のときは、僕が全然出てきていない時期だったのであまり接点はないですが、体操を辞めてエアリアルへ転向したのは知っていました。転向は、すごいとしか言いようがない。もし僕が東京五輪で引退して、『違う種目で五輪に行ってください』って言われても無理。モチベーションも技術も全然違うじゃないですか。それを一から作り上げていったのはすごい。根性がすごいと思います」
水鳥寿思・日本体操協会男子強化本部長は「一緒にトリノ五輪のエアリアルをテレビで見て、お前ならできるよと盛り上げたことを覚えています」と笑みを浮かべる。
「田原と僕は日体大の同期であり、団体戦のメンバーを決めるときなどに実力的にいつも競っていたライバルでした。床運動では命が惜しくないのかというような大技(伸身リピスキー)をやっていた。すごい苦労だったと思います。やっとつかんだ五輪ですから、頑張ってほしいです」と応援する。
■「メダルを目指す」田原の心意気
体操選手時代、大技を数多く組み込んでいたことについて、田原はこう話している。
「日本の体操はきれいなイメージですが、僕は身体が硬くてきれいな線が出る方ではなかった。生き残って行くには技をしていくしかなかった。難しい技やオリジナリティーのある技にはこだわってやっていました。2005年の伸身リピスキーは、命がけでやっていました」
エアリアル転向後は苦しいことも多かったというが「みんなが支援してくれて、それがエネルギーになってきた。金銭面につながるところじゃなくても、モチベーション維持という意味で多くの方に声を掛けてもらって助けてもらいました。平昌では、そういう人たちに喜んでもらえるような滑りをしたいです」
エアリアルのW杯では、2012年1月、2016年2月、そして2018年1月に3位になった。
「トップ20までみんな表彰台に上がる力を持っていると思う。五輪では予選をいかに勝ち抜くか。W杯は予選の上位12人が決勝に進出しますが、オリンピックは6人抜け。通過基準が高いので予選から相当な精度でジャンプしないといけない。体操ではメダルは当たり前です。エアリアルでももちろんメダルを目指します」
とてつもない執念でつかんだ平昌五輪の舞台。多くのエールが田原にパワーを与えている。