【今年は昭和100年】昭和の映画界の巨匠・世界の小津安二郎が仕事の合間に通った蓼科親湯温泉
昭和二十九(一九五四)年八月十八日。
野田高梧の別荘「雲呼荘」を訪ねたのが、小津にとって初めての蓼科だった。
滞在は三週間ほどだったが、
「雲低く寝待月出でて遠望模糊、まことに佳境、連日の俗ぞく 腸ちょうを洗ふ」
と蓼科を気に入った心境を言葉に残している。
それから二年後に、小津は仕事部屋を神奈川県茅ヶ崎市「茅ヶ崎館」から蓼科に移す。 そして昭和三十二(一九五七)年公開の「東京暮色」から最後の作品「秋刀魚の味」まで七本の映画のうち、「彼岸花」を除く六本の脚本を蓼科で執筆した。
蓼科での様子は平成二十五(二〇一三)年に刊行された『蓼科日記抄』に詳しい。
元と なったのは、小津や野田、「雲呼荘」を訪ねた客たちが自由に記せた雑記帳で、トータルで一八冊にも及ぶ。そのなかから脚本の執筆に関わる部分がおもに収録されている。一三年は小津生誕一一〇年、没後五〇年。さらに野田生誕一二〇年、没後四五年でもある記念の年に出版されたので、話題になった。地元では小津と野田が歩いた道を「小津の散歩道」と命名した。
脚本の執筆といっても、大半は日々の生活の記録。食べたもの、見た風景といった些細 な出来事が淡々と続く。とりわけ酒を飲む描写が多い。
客人とともに出かけた当時の喫茶店「蓼科アイス」は特に小津のお気に入りで、「アイス夫人」という愛称まで出てくる。
こうした地元の人との交流以上に、私の目を引いたの は「親湯」についてだ。
「親湯」と表記されているのは、平安時代に坂上田村麻呂が発見したと伝えられ、滝ノ 湯川沿いに湧出する親湯温泉のことを指す。武田信玄の隠し湯として知られ、また文人墨客に愛されてきた。当時は「親湯温泉ホテル」一軒のみだったが、小津や野田は散歩で立ち寄りやすく、日常的に「親湯」に入っていたようだ。また訪ねてきたお客をよく「親湯」に連れて行っていた。
事実、『蓼科日記抄』の冒頭には「親湯への道すがら」と説明が入った写真が掲載され ているが、野田、野田の妻の静らとともに、柔和な表情をした小津が杖をついた着物姿で写っている。 本文中からも親湯温泉と近しい間柄であった記述が残る。
朝、親湯へいく。来て初めての入浴なり。湯瀧に打たれ、プールで泳ぐ。(高)
「親湯」にて裏側に宴会場を増築することになり、そこの岩盤を崩したるため、石垣用の石が沢山出来、それが一個二十五円なりといふ。即ち買求めて裏庭に石垣を築かんとし利市に手配を頼む。(高)
朝から雨、一同無為、徒ずらに読書に耽ふける。利市君、徳郎君よりの傳言なりとて二十 六日午後二時よりの親湯新築祝ひへの招待の内諾を得たき旨話あり。
蓼科を訪れた映画監督の新藤兼人は、
七時親湯温泉のいちばん奥の部屋で目がさめる。いい天気だ。まだ陽は当らないが、 向こうの山脈にはもう太陽が当っている。
きのう、はじめて蓼科を訪れた。以前から野田さんに一度くるようにいわれていたの で、いつか訪れようと思っていたが(中略)すばらしい所だ。拓かれていな〔い〕感じがいい。十二時に野田邸(三十年前に建てた小さな家)に着いてみると、小津さん下河原君の三人で朝酒がはじまっていた。
と記している。
蓼科で小津の世話をしていたという柳澤徳一さんは、『蓼科日記抄』にもその名が出て くる。小津安二郎記念館「無藝荘」初代火 ほ 代しろ 番ばん (囲炉裏の火を絶やさないための番人)も 務めていた、いまとなっては直接小津と関わったことがある数少ない人だ。
※この記事は2024年6月5日発売された自著『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』から抜粋し転載しています。