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小田原城が落城しても、完全に滅亡していなかった北条氏のその後

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小田原城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、小田原城の開城により、北条氏は事実上滅亡したが、別に完全に滅亡したわけではない。その後、北条一族がどうなったのか、確認することにしよう。

 天正18年(1590)7月、北条氏直は豊臣秀吉の激しい攻撃に屈し、ついに降参することを決意した。その際、氏直は滝川雄利の陣所に向かい、自身が切腹することを降伏の条件として、城兵の助命嘆願を求めた。

 秀吉は氏直の申し出に感嘆し、徳川家康が舅であったことから格別の配慮を示し、氏直と城兵の助命を認めることにした。その代わり、氏直は改易となり、高野山(和歌山県高野町)への蟄居を命じられた。

 ところが、氏直の父の氏政に関しては、家康が助命嘆願をしたものの、開戦の責任を取らせるため切腹が命じられた。氏政の弟の氏照のほか、重臣の松田憲秀と大道寺政繁も、同じく切腹となった。

 こうして、北条氏の主だった一族や重臣は、責任を取らされたのである。氏直が生き延びたとはいえ、壊滅的だったのは事実である。その後、北条一族は、どうなったのだろうか。

 同年8月、氏直は家臣らとともに小田原を発ち、高野山へと向かった。到着後は見性斎と称し、高室院で蟄居したのである。天正19年(1591)になると、氏直は秀吉の重臣や舅の家康を通して、秀吉に赦免を乞うた。

 結果、同年8月に氏直は秀吉に許され、河内国などに1万石を与えられた。その後、氏直は妻の督姫(家康の娘)を呼び戻し、新生活を開始しようとしたが、不幸にも同年11月に病死したのである。しかし、ここで北条氏が断絶したわけではない。

 氏政の兄弟の中では、氏規が切腹を免れていた。氏規は氏直とともに高野山に向かったものの、のちに秀吉から赦免されていた。

 それだけでなく、河内国丹南郡と河内郡に計8980石を秀吉から与えられ、狭山城(大阪府大阪狭山市)の城主になっていた。氏規が亡くなったのは、慶長5年(1600)2月のことである。その氏規には、氏盛という子がいた。

 天正19年(1591)11月に氏直が亡くなると、氏盛がその遺領のうち下野国内の4000石を与えられることになった。慶長5年(1600)2月に氏規が病没すると、その遺領のうち7000石を氏盛が継承した。

 その結果、氏盛は計11,000石を領する大名になった。これが、狭山藩のはじまりである。氏盛が亡くなったのは、慶長13年(1608)のことである。

 氏盛の死後、子の氏信が家督を継承し、狭山藩は12代にわたって幕末維新期まで続いた。明治維新後、子孫の氏恭は狭山藩知事に任じられたが、のちに辞任。明治17年(1884)になると、華族令に基づき、子爵に叙されたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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