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小早川秀秋だけではなかった!関ヶ原合戦で西軍から東軍に寝返った3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:イメージマート)

 慶長5年(1600)9月15日は、関ヶ原合戦があった日である。この日、徳川家康が率いる東軍は、西軍諸将の裏切りもあり、勝利を掴んだので、西軍から東軍に寝返った3人の武将を紹介することにしよう。

◎脇坂安治(1554~1626)

 慶長5年(1600)、徳川家康が会津征討に出陣すると、脇坂安治は大坂に留まり、子の安元は家康勢に合流しようとした。しかし、安元は石田三成によって東上を妨げられ、父とともに泣く泣く西軍に従うことになった。この事情は、安元が山岡景友に書状を送り、家康に伝えられた。

 脇坂父子は西軍に属したものの、すでに事情を家康に説明しており、それは了解されていた。いざ合戦がはじまると、脇坂父子は東軍の一員として西軍と交戦し、東軍を勝利に導いた。戦後、脇坂氏は旧領を安堵されたが、それは藤堂高虎の口添えがあったからだという。

◎赤座直保(?~1606)

 赤座直保は、織田信長、豊臣秀吉に仕えた大名である。関ヶ原合戦では、西軍に与しており、大谷吉継に従っていたという。しかし、合戦当日に小早川秀秋らが東軍に寝返ると、直保もその動きにならい、吉継の軍勢を破ることに貢献した。

 直保が東軍に寝返った事情は不明であるが、戦後、恩賞を与えられなかったので、当日になって裏切りを決断した可能性がある。そのような事情もあり、恩賞どころか改易という厳しい処分を科されたのだろう。家康は安治のケースとは異なったので、改易にしたと思われる。

◎小川祐忠(1535~1601)

 小川祐忠は、織田信長、豊臣秀吉に仕えた大名である。関ヶ原合戦において、祐忠は子の祐滋の強い説得により、西軍に与した。やがて、祐忠は西軍が不利と考え、藤堂高虎を通して東軍に誼を通じた。ところが、祐滋は最後まで父の考えに反対したという。

 合戦がはじまると、祐忠は東軍の一員として出陣したが、戦後は厳しい処分となった。小川父子が石田三成と昵懇だったことが問題となり、死罪になるとまでいわれた。しかし、死罪は撤回され、翌年、豊後国日田に2万石を与えられたが、家督を継いだのは光氏(祐忠の子)だった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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