日英ともに触れられてこなかった入鹿村の収容所、イルカボーイズの軌跡
戦争には様々な悲劇がつきものです。
そんな中イルカボーイズは、特異な例として後世まで語り継がれています。
この記事ではイルカボーイズの軌跡について取り上げていきます。
なおこの記事は全3回のシリーズになっています。
前回はこちら その1
日英ともに触れられてこなかった入鹿村の収容所
1945年8月15日、終戦を迎えた大阪俘虜収容所第16分所では、イギリス軍捕虜たちが歓喜の声を上げました。
ピアノを奏でたり、祝杯を交わしたりして解放の喜びを分かち合いましたが、彼らがすぐに帰国できたわけではなく、3週間ほど三重県入鹿村に滞在したのです。
その間、捕虜たちは自由に村人と交流できるようになり、地元の子どもたちとサッカーを楽しんだり、収容所でコンサートを開いたりして村人たちを楽しませました。
帰国直前には、イギリス人隊長が戦中の支援に感謝して作業服を贈ろうと提案するなど、深い友好関係が築かれていたのです。
9月8日、捕虜たちは13台のトラックに分乗して「さようなら」と何度も言いながら村を去り、村民は沿道に立ち別れを惜しみました。
一方で、収容所で亡くなった16人の捕虜は「外人墓地」に埋葬されましたが、後にその遺骨は横浜の英連邦戦死者墓地へ移されたのです。
地元の村人は、この墓地を大切に管理し続け、1958年頃からは老人クラブがその役割を担いました。
しかし、帰国した元捕虜たちは、日本で戦友が墓地に葬られ、地元の人々によって丁重に弔われていることを知らず、日本に対する怒りや憎しみを抱えたまま長い時間を過ごしました。
この苦悩を家族にも話さず、孤独に抱え続けた者も少なくなかったのです。
時が経ち、紀和町では1965年に「外人墓地」が町の文化財に指定されましたが、元捕虜たちとの和解は進んでいませんでした。
転機が訪れたのは1987年のことです。
紀和町に帰省した日系イギリス人の恵子ホームズが、墓地の存在と地元住民による丁寧な弔いを知り、これを遺族や元捕虜に伝えたいと強く感じました。
イギリスに帰国したホームズは、元捕虜やその遺族に伝えるための手がかりを探しましたが、当初は手がかりが見つからなかったのです。
しかし、偶然にもカトリックの神父が墓地を訪れ、その感動をカトリック系の雑誌『極東』に寄稿したことで、元捕虜のジョー・カミングスがこの話を知ることになりました。
これをきっかけに、ホームズはカミングスや他の元捕虜たちと文通を始め、彼らとの交流が進んでいったのです。
さらに、ホームズは『A LITTLE BRITAIN 片隅に咲く小さな英国』という小冊子を作成し、ロンドンで開催される戦友会に参加して墓地の存在を伝える活動を開始しました。
最初は日本人との交流に戸惑いを見せた元捕虜たちも、ホームズの話を聞くうちに日本を訪れたいという思いが芽生えました。
そして、かつて交流した入鹿村の村民との温かな思い出が、彼らの心の氷を溶かすことになったのです。
彼らは「イルカボーイズ」と自称し、和解への一歩を踏み出していきました。