【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝は上総広常を殺害して、本当に後悔したのか
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第15回では、源頼朝の指示で上総広常が暗殺された。頼朝は広常を殺して後悔したというが、その点を詳しく掘り下げてみよう。
■上総広常の死
寿永2年(1183)12月20日、上総広常は梶原景時と双六に興じていたが、油断したすきに景時によって殺害された。この話は『愚管抄』に書かれたものであり、残念ながらこの時期の『吾妻鏡』は記事を欠いている。
広常の殺害後、子の能常は自害して果てた。自らの今後の運命を悟ったのだろう。その後、広常の遺領は、千葉氏と三浦氏に与えられた。彼らの関与すら疑われる。
一説によると、広常は常々東国の自立を説き、頼朝が朝廷に擦り寄るのを非難していたという。そして、謀反の疑いがあったので、頼朝は広常の殺害を景時に命じたと伝わっている。詳細は、「上総広常は、なぜ源頼朝に殺されたのか。その当然すぎる理由」で。
■広常の願文
元暦元年(1184)1月、上総国一宮の神主が言うには、在りし日の広常には宿願があり、甲(兜)1領を宝殿に奉納したという。そこで、頼朝は上総国一宮に2領の甲を贈り、すでに神宝となっていた広常の甲と交換してもらった。
使者が広常の甲を携えて鎌倉に戻ると、その中から1通の願文が見つかった。それは頼朝の祈願成就を上総国一宮に願う3ヵ条のもので、内容は以下のとおりである。
①3ヵ年中に神田20町を寄進すること。
②3ヵ年中に造営すること。
③3ヵ年中に何度も流鏑馬を催すこと。
これは、頼朝の祈願の成就、そして東国泰平を願って奉納された広常の願文である。広常は謀反をたくらんだとされているのだから、これではまったく正反対である。
頼朝は広常を討ったことをいたく後悔し、亡くなった広常の追福を願ったという。そして、広常に縁座して処分された弟の天羽直胤(秀常)のほか、関係した囚人らを許したという。
■続々許された関係者
さらに同年2月、頼朝は広常に縁座した上総国御家人から所領などを没収していたが、それを返還し、もとのように領掌するよう命じた。
そして、同年3月になると、広常の外甥だった原高春の帰参を許した。広常が討たれたとき、高春は累が及ぶことを恐れて逐電した。
しかし、頼朝は広常を殺したことを後悔し、高春の知行などを安堵して、御家人に列したというのである。
一連の流れを見る限り、頼朝は自分の勘違いで、広常が謀反人と思い込んで殺害したが、願文が出てきたことで後悔したことがわかる。
頼朝は反省の意をあらわすため、広常の一族や関係した御家人を許した。頼朝に後悔の念があったと考えるのが自然であろう。
■むすび
何となく美談のようになっているが、そもそも広常の願文が怪しい。偽文書とする説すらある。頼朝にすれば、最大のライバルだった広常を討てば事足りた。一族や関係した御家人は帰順の意を示すならば、殲滅する必要はない。貴重な戦力となりうる。
広常の願文については胡散臭さもあり、頼朝が素直に反省するのも解せない。本当に頼朝が広常を殺したことを後悔したのか、疑問が残るところである。