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先月末、他界した剛腕・郷原洋行氏。生前に語った競馬への想いとは

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
オペックホースで日本ダービーを制した郷原洋行騎手(写真提供=読売新聞/アフロ)

挫折を乗り越えトップジョッキーに

 週1回、美浦トレセンに姿を見せていた。私の顔を見れば「最近はどこに行ったんだい?」と声をかけてくれた。評論家としての原稿を私がリライトしていた際は、先方から「今週はうちに来てやるか?」等と連絡をくれた。偉大な成績を残された方だったが全く偉ぶるところはなかった。この1月の話だ。「最近、顔を見ないな……」と思い、とくに用事はなかったが電話を入れた。応答はなく、普段はすぐにかかってくる折り返しの連絡も入らなかった。それから1週間ほど後の1月31日、亡くなった。

 郷原洋行。

 “剛腕”と呼ばれた騎手時代はG1級競走を10勝。競馬界の一時代を築いた偉人である。最近のファンの中には彼の功績や素晴らしい人柄を知らない人も増えてきたので、生前にかわした言葉をまじえつつ、改めて記させていただく事とした。

 郷原洋行が生まれたのは1944年1月21日。昭和でいえば19年、鹿児島の出身だ。幼い頃、周囲には普通に馬車が走っていたと言う。

 「馬が特別な存在ではありませんでした。とはいえ、サラブレッドとは違いますけどね」

 馬車のタイヤはまだゴムも巻かれていない時代だったと言い、パワーのある馬が引っ張っていたと続ける。弁当はご飯に梅干しのいわゆる日の丸弁当が当たり前。パンや牛乳を持ってくる子がいれば羨ましがられたと言う。そんな時代だから、東京へ出るのも一苦労。チラシをみて騎手を目指した郷原は鹿児島から汽車で28時間かけて東京へ出た。

 馬事公苑騎手養成課程を経て62年に騎手デビュー。5年後の67年、リユウズキで皐月賞を勝つと、その年、初めての関東リーディングの座にも立ってみせた。

 「リユウズキはトライアルのスプリングSで外傷を負い、一度は皐月賞を断念しました。でも、この年は厩務員ストライキがあって、皐月賞が3週遅れで開催されたため、何とか怪我が癒えて出走。勝つ事が出来ました」

 その後、一度、人間関係のもつれから挫折し、騎手を辞めて田舎に帰ろうとした事があった。その噂を耳にした栗林友二に「うちの会社に来てください」と呼び出された。栗林は牝馬ながら日本ダービー他11戦11勝の記録を残したクリフジなど名馬のオーナー。社屋へ行くと1階の受付の前には多くの来訪者がいた。しかし、郷原が受付に来社の理由を告げると、すぐに上階へ通された。

 「8階の社長室へ通され、栗林さんに『皆、面会の順番待ちをしているのに何故すぐあげてもらえたか分かるか?』と言われました」

 小首を傾げる郷原に栗林は続けて言った。

 『おまえが騎手だからだぞ』

 郷原は翻意し、以降は騎手という仕事に誇りを持つようになった。

 71年には痛風になり、靴を履くだけでも30分は要した。

 「当時の医学では痛風は治療の難しい病気でした。一時しのぎに痛み止めの注射を打つくらいしか出来ず、禁酒など食事制限をして生活習慣から変えるしかありませんでした。正直、苦痛でしたけど、それでも騎手を辞めようという気は2度と起きませんでした」

 79年には当時史上5人目の通算1000勝を達成。春秋天皇賞をカシュウチカラとスリージャイアンツで制覇し、自身初の全国リーディングの座も射止めた。

生前の郷原氏(2017年撮影)
生前の郷原氏(2017年撮影)

日本ダービー制覇、プロとしての態度、そして子息の騎手デビュー

 80年の日本ダービー。コンビを組んだオペックホースのオーナーはホース産業(株)。その社長・角田二郎と「一緒にゴルフに行った時に依頼され」乗るようになった馬だった。

 「その角田社長がダービーの直前に亡くなられました。だからこの時のダービーは弔い合戦という感じで、私も、調教師や厩舎のスタッフも皆、強い想いを持って臨みました」

 「入線後はヘトヘトになった」と言うほど、ゴール前はモンテプリンスと叩き合った。その結果、見事に優勝した。精魂尽き果てたのは鞍上ばかりではなかった。ダービー馬となったオペックホースだが、その後は実に32戦にわたり先頭でゴールを切る事はなく、引退をする。改めてダービージョッキーになった時の気持ちを述懐してもらうと、郷原は答えた。

 「嬉しいというより、ホッとしたものです」

 そんな心中だったのは、この時ばかりではなかった。その後も87年にJRA賞の最優秀スプリンター(現、同短距離馬)に選出されたニッポーテイオーとのコンビで天皇賞(秋)(87年)や安田記念(88年)を勝ち、89年に2度目の日本ダービーを優勝(ウィナーズサークル)するが、彼はいつもプロフェッショナルとしての態度を貫いた。

 「ビッグレースを制してももろ手を挙げて喜ぶ事はありませんでした。自分は仕事をしただけ、責任を果たしただけという気持ちでした」

 91年には次男の洋司が騎手デビュー。自身は当時史上4人目となる通算1500勝を達成したが、その2年後の93年には鞭を置き、調教師に転身。引退時の通算勝利数は1515で当時、歴代4位という偉業だった。息子の洋司については次のように言っていた。

 「最後の1年は倅に付き合ったようなものでした。彼は函館で落馬をして生死の境をさまよったことがあった。不幸中の幸いで、復帰できたけど、その後の人生は“もらった命”だから好きにすれば良いと思いました。だから引退すると聞いた時もとくに止めませんでした」

生前、語った競馬への想いとは?

 調教師になった郷原は名ジャンパーのゴーカイを育てた。同馬は2000年、01年と2年連続で中山グランドジャンプ(J・G1)を優勝している。

 「オーナーと『勝ったら豪快に飲もう』という理由で命名した馬でした。唯一の心残りは中山大障害(J・G1)を3年連続で2着に惜敗した事。1度は勝たせたかったけど、最後は弟(ユウフヨウホウ)に負けちゃいました」

 ちなみに郷原厩舎の晩年、10年に中山グランドジャンプで2着したオープンガーデンは、ゴーカイの産駒だった。

 そんな郷原調教師だったが、定年まで3年を残し、11年に自ら厩舎をたたんだ。当時は次のように語っていた。

 「調教師は騎手と違って外交がうまくないとダメ。現在の難しい時代で、そういった色々なモノを含めて、もう自分には無理かな……と思いました」

 こうして一線からは退いたが、14年には競馬の殿堂入りを果たした。そして、冒頭で記したようにその後も毎週、美浦トレセンには顔を出していた。スタンド1階の隅の一室で、隠れるようにして調教を見ていた。そうやって見ていた理由を本人は次のように語った。

 「私の顔を見れば、若い人達だって、何某か声をかけなければ、という気持ちになっちゃうだろう? そうやって気を使わせるのは申し訳ないから、出来るだけ目立たないところで見るようにしているんだ」

 昨年、奥様に先立たれた後は、ご自身も入退院を繰り返すようになっていた。それにしてもまだ76歳での旅立ちは、現在の時代を思えば、早過ぎる。もっともっと様々な事を教えていただきたかった。以前、取材させていただいた時、剛腕がしみじみと語っていた言葉が、今でも忘れられないので、最後に記しておく。郷原さんは言った。

 「競馬には本当に感謝しています」

生前の郷原氏と筆者(2019年撮影)
生前の郷原氏と筆者(2019年撮影)

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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