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樋口尚文の千夜千本 第121夜「ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景」(福嶋亮大著)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
「ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景」書影(c)PLANETS

“The Seed and the Sower”

宇野常寛さんから熱く「ぜひ読んでいただきたい」と送られてきたゲラで、福嶋亮大さんのご高著『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』をいち早く拝読。これは宇野さんが主宰するPLANETSの新刊なのだが、まだ全てを読み終えていないうちから、深い感慨を抱いた。いや、この書物にそこまでの感慨を抱く読者も限られているかもしれないが、これは特撮論という領域が「漸くも漸く」たどりついたひとつの望ましい「到達点」と言えるだろう。

もの凄く要約して言うと、特撮論壇(仮にそういうものがあるとして)には三つのゆゆしき傾向がある。一つめは、古式ゆかしいファン的視点による、実際の特撮作品をひたすら賛美し誇大解釈した特撮オタクの文章。二つめは、逆に実際の特撮の工程寄りだがあまりに細部の記録に終始し、単なる現場礼賛に終わってしまう作り手側の文章。三つめは、特撮作品に事寄せてアカデミックな言説を披歴するばかりの、学者や一般の評論家の文章。

一つめと二つめは、作品を賛美することが前提になりがちで、それゆえに実際の創作物としての作品を直視することなく、どんどん離れてゆくことが多い。最もタチの悪い三つめは、作品自体はダシに使われているだけで、読者は書き手の社会学や政治学のペダントリー(ひどい場合は著者の人生訓)に付き合わされるばかりだ。とは言うものの、一つめの作品への愛情、二つめの現場的なリアリズム、三つめの文化論的な教養は、論者にとって(程度問題だが)欠くべからざるものではあろう。

事ほどさように、あんなに観て愉しむのはカンタンな特撮を固有の文化として論ずるのは、きわめて難しい。特撮論は、言わばくだんの三つのポジションにマルチカメラを据え、「たかが特撮/されど特撮」という論考の深度、間合いを測りながら辛うじて像を結ぶものかもしれない。特撮オタクの過度な愛情や妄想も、学者・評論家筋の過剰な教養や深読みも、この際ジャマ以外の何ものでもない。特撮はむだに賛美されても卑下されても、視界からぬけ落ちてゆく。「たかが」と「されど」をともに許容する客観性とフレキシビリティとタフさがなければ、特撮という美しくささやかな文化は真っ当なかたちで把握できない。

そしてそういうクールな視座を持つならば、特撮作品はファンが妄想するような特定の作家の天才的な力量とセンスが生んだ発明物ではなく、さまざまな文化の広大かつ猥雑な結節点として(具体的な影響関係の裏付けを伴いながら)とらえられるはずであって、おのずから大島渚とウルトラマン、戦前戦中の大陸雄飛思想と宣弘社ヒーローは、こじつけでない生々しさをもって関係づけられてくるはずなのだ。かれこれ三十年近く前からそういうパースペクティブでの特撮論をごくひと握りの読者に向けて上梓してきたが、なんだかずっと孤独にパラパラと種子を蒔いている感は否めなかった。

ところが、今回なんと1981年生まれの俊英・福嶋亮大さんの著したゲラを読むうちに(最初は氏が大学の准教授というだけで疑ってかかったが笑)、これはわれわれが断片として蒔いてきた種子を掛け合わせて予期せざる大輪の花を咲かせたような書物であることを確信した。もちろん著者は昭和特撮の最盛期にはるか遅れてきた少年である以上、時として文献学的になって体感に導かれる切実さから遠ざかるうらみはあれど、それは新世代の論客が避け得ない瑕僅に過ぎず、孤独に種子を「蒔くもの」の古参としては本書の誕生を無条件に言祝ぐものである。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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