9割以上が命を落とした、八甲田山雪中行軍遭難
冬の山は夏の山と比べて危険であり、遭難して命を落とす人も非常に多いです。
そのような中でも群を抜いて甚大な被害を出したのは、明治時代に青森県で起こった八甲田山雪中行軍遭難事故です。
今回は近代登山史上最悪の事故、八甲田山雪中行軍遭難事故について紹介していきます。
どんどん倒れていく将兵、最後の一人は立往生寸前
1月26日、八甲田山の凍てつく寒さの中で、生き残った数人の将校は、比較的元気な十数名の兵士と共に協議を行い、集落までおよそ8キロメートルの距離を推測し、夜明けを待って出発することを決定しました。
しかし、将兵を集めた時点で既に30名しか残っておらず、多くの者が凍傷や疲労で満足に歩けない状態でした。
この日の天気は晴れ時々雪で、隊は夕方まで行軍を続け、4度目の露営を行いました。
通常なら2時間で歩ける距離も、極度の飢えと疲労で1日かかりました。
一方、青森では60名からなる救助部隊が結成され、救助に向かいました。
救助部隊は地元の村民を案内人として雇い、捜索活動を行いましたが、マイナス14度の厳しい天候と悪化する風雪により、捜索を断念し集落へ引き返すこととなりました。
1月27日、生き残った隊は協議の末、二手に分かれることを決定しました。
神成文吉大尉率いる一行は最初に出発した集落を目指し、倉石一大尉ら20名の一行は川沿いに進み、青森を目指しました。
しかし、倉石隊は崖にはまり、進退窮まる状況に陥りました。
日没後、見習士官が下士1名と共に連隊に報告すると言い、錯乱して川に飛び込んで命を落としました。
神成隊も猛吹雪に見舞われ、次々と落伍者が続出。
ついには神成自身も倒れ、部下に救援を依頼しました。
救助部隊は捜索活動を再開し、午前10時半頃に大滝平付近で神成が救援を依頼した部下を発見しました。
彼は雪中で仮死状態に近い状態で立っており、救助されて意識を取り戻したとのことです。
部下が神成の名前を口にしたため、付近を捜索すると、100メートル先で神成が倒れているのが発見されました。
神成は首まで雪に埋まり全身が凍結、救命措置も効果なく死亡したのです。
午後7時40分、救助部隊は本部に「雪中行軍隊が全滅の模様」であることを伝えました。
これにより、行軍隊の悲劇的な状況がようやく明らかになり、連隊長も深刻さを痛感したのです。
210名のうち、生きて帰れることのできたのはわずか11名
1月28日、八甲田山での過酷な行軍はさらに深刻な局面を迎えました。
倉石隊ではまたもや錯乱者を出し、数人が川に飛び込んで凍死しました。
この時、倉石大尉は数名の兵士を連れて崖穴に避難していましたが、数名は川岸に残っていました。
倉石は数名に崖穴への移動を勧めましたが、この数名は「ここで死ぬ」と言い、その場を離れませんでした。
1月29日、救助部隊が遺体を収容し、哨所の設置が進められました。
1月31日、捜索に加わっていた農民が炭小屋を発見し、その中で2名の生存者を救出しました。
さらに、他の場所でも多くの遺体が発見され、救助活動が続けられました。
同日午後3時頃には倉石ら生存者4名が崖の上で救助部隊に発見されました。
しかし倉石以外の3名は救助後に死亡し、最終的に生還できたのは倉石だけです。
2月1日からも捜索は続き、多くの遺体が発見されました。
最終的に訓練への参加者210名中のうち193名が死亡し、6名が救出後死亡し、生きて帰ることのできたのはわずか11名でした。
この悲劇的な遭難事件は、八甲田山の厳しさと過酷さを物語る出来事として歴史に刻まれることとなったのです。