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石田三成が島清興(左近)を三顧の礼で家臣に迎え、過分な知行を与えたのは事実か?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
石田三成。(提供:アフロ)

 企業が良い人材を獲得するため、高給で人材募集をすることは珍しくない。石田三成も島清興(左近)を家臣に迎える際、過分な知行を与えたというが、それが事実なのか考えてみよう。

 かつて、島清興は左近と称されていたが、『多聞院日記』や「根岸文書」に清興と書かれているので、今は清興が用いられている。また、勝猛という名も使われるが、一次史料で確認することはできない。

 島氏の出身地は大和国(奈良県平群町)だが、島一族や清興については、わからないことが多い。清興は畠山氏に仕えたあと、筒井氏の配下に収まったという。清興は筒井順慶の「侍大将」を務めたというが、残念ながら一次史料で確かめることができない。

 松倉重信(右近)と島清興(左近)は、筒井家を支えた家臣として、「右近左近」と並び称されるが、これは後世に呼ばれたものだろう。順慶の死後、定次が家督を継いだが、清興は意見が合わず、筒井家を去ったと伝わっている。

 牢人となった清興は、いったん法隆寺に身を寄せると、のちに近江国へ下ったといわれている。清興は豊臣秀長、豊臣秀保あるいは関一政に仕官したと伝わるが、その辺りも明確ではない。

 牢人生活を送っていた清興に、大きなチャンスが訪れた。近江国水口(滋賀県甲賀市)に所領を持つ石田三成は、清興に家臣になって欲しいと要請したのである。

 近世の編纂物の『常山紀談』によると、三成は自身が領する4万石のうち、半分の2万石を清興に与えるという破格の条件を示したという。三成はそれだけの高禄を与えてでも、清興を家臣にしたかったのだ。

 しかし、三成が水口を領していたというのは間違いで、三成が清興を家臣に迎えたのは、天正18年(1590)頃から確認できる。そして、三成が近江国佐和山城(滋賀県彦根市)主になったのは、文禄4年(1595)のことである。

 『常山紀談』の記述は誤りであり、「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」と詠まれたのも、後世に創作されたものと考えられる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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