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徳川家康の天下統一に貢献した2人の有能なブレーン

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
南禅寺。(写真:イメージマート)

 今年の大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康の家臣たちが数多く登場した。彼らは忠臣として家康を支えたが、僧侶の天海と崇伝はブレーンとして、家康の天下統一に貢献した。天海と崇伝はどういう人物だったのか、検証することにしよう。

◎金地院崇伝(1569~1633)

 崇伝が誕生したのは、永禄12年(1569)のことである。父の一色秀勝は室町幕府の幕臣だったので、崇伝もあとを継ぐことで将来の栄達が期待された。

 しかし、元亀4年(1573)に将軍の足利義昭が織田信長によって京都から追放され、室町幕府が滅亡したので、崇伝は出家して南禅寺に入った。以降、後陽成天皇から紫衣を下賜されるなどし、僧侶としての頂点を極めたのである。

 慶長13年(1608)、崇伝は徳川家康の招きに応じて幕政に参与し、主に外交を担当した。加えて、京都所司代の板倉勝重とともに、寺社行政にも携わったのである。

 慶長18年(1613)、家康は崇伝に禁教令(キリスト教の禁止)の起草を命じた。その後も崇伝は、「寺院諸法度」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」の制定に関与し、家康を背後で支えたので、「黒衣の宰相」という異名を取ったのである。

◎南光坊天海(1536?~1643)

 崇伝は天文5年(1536)に誕生したといわれているが、その出自などについては不明な点が多い。一説によると、葦名氏の流れを汲むという。なお、天海と明智光秀が同一人物であるという説は、間違いである。

 天海は各地の寺院を転々とし、天正16年(1588)に無量寿寺北院(のちの喜多院。埼玉県川越市)に移った。天海が同寺の住持になったのは、慶長4年(1599)のことである。慶長14年(1609)になって、家康は天海を登用したのである。

 元和2年(1616)に家康が病没すると、その神号をめぐって、天海は崇伝と本多正純と争った。崇伝らは家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張し、天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張した。

 その結果、滅亡した豊臣家の秀吉が豊国大明神の神号が贈られた後に滅亡し、それが不吉であると天海が述べたので、家康の神号は「東照大権現」に決まったのである。こうして家康は、日光に葬られた。

◎まとめ

 家康の配下の武将には、「家康のためなら命を擲っても構わない」という強い覚悟を持った三河武士がいた。また、大久保長安、板倉勝重、伊奈忠次のように、優れた行政手腕を発揮した者もいた。

 僧侶の天海と崇伝は家康のブレーンとして、外交、宗教などの政策に関与し、江戸幕府の基礎作りに貢献したのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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