【戦国こぼれ話】北野天満宮の「梅花祭」では、北野大茶会にちなんだ「野点」が中止。秀吉の北野大茶会とは
2月25日、北野天満宮(京都市上京区)で「梅花祭」が開かれた。しかし、コロナの影響によって、恒例の北野大茶会にちなんだ「野点(のだて)」が中止になってしまった。野点とは、屋外で茶を楽しむ茶会のことだ。来年はぜひ再開してほしい。ところで、北野大茶会とは、どんな茶会だったのだろうか。
■豊臣秀吉と茶の湯
豊臣秀吉といえば、茶である。秀吉は千利休らの指導を受け、茶に精進した。大坂城には自らの財力を誇示するかのように、いわゆる「黄金の茶室」を作った。そうした秀吉が催したのが、有名な「北野大茶会」である。
天正15年(1587)7月、宿敵である薩摩島津氏を九州征伐で屈服させた秀吉は、天下に自らの名を知らしめることを思いついた。その一つが、聚楽第の建築である。そして、もう一つが北野大茶会という大規模なイベントであった。
北野大茶会の開催に先立って、秀吉は千利休、津田宗及とともに北野天満宮に参籠し、茶会成就の祈願を行った。秀吉の強い意気込みが感じられる。
同年8月、秀吉は京都、奈良、堺に高札を立て、また諸大名、公家、茶人に朱印状を送り、同年10月に茶会を開く旨を伝え、参加を促した。その主要な部分は、おおむね次のようになる。
(1)10月1日に北野の森で10日間にわたって茶会を開き、秀吉の名物の茶道具を公開すること。
(2)茶を嗜む者は、身分に関わりなく参加してよいこと(外国からの参加も可)。また、服装なども問わない。
(3)北野の森の松原に畳2畳分の座敷を準備し、服装・履物・席次などは一切問わない。
(4)茶湯の心得がある者に対し、秀吉自らが目の前で茶を立てること。
10日間も開催するのは、遠国から来る者への配慮であった。また、茶を準備できない者は、その代用品である「こがし」でもよいとしている。
重要なのは、ここまで配慮しても参加しない者については、今後、一切茶の湯をしてはならないという点に尽きるであろう。秀吉の許可なくして、茶の湯はできなくなったのだ。
■北野大茶会の開催
こうして9月になると、会場の工事が執り行われ、いよいよ10月1日を迎えた。会場の北野天満宮の拝殿の中央には、黄金の茶室が持ち込まれた。
秀吉自慢の名物の茶道具(「似たり茄子」など)は、神社の拝殿に並べられた。拝殿の前には秀吉、千利休、津田宗及、今井宗久ら茶頭役を務める四畳半が四席設置され、秀吉の名物で飾りや道具が整えられた。
参加者は京都だけでなく、大坂・堺・奈良からも駆けつけ、1000人ほどになったといわれている。そして、野点も行われたのである。
近衛前久父子、美濃の茶人・一化なども参加し、山科の茶人・丿貫(へちかん)は、朱塗りの傘を立てて秀吉を喜ばせたと伝わっている。
■突然、中止となった大茶会
ところが、翌10月2日になると茶会は突然中止され、その後も再開されることがなかった。その理由は、今もって明らかではない。
一説によると、九州征伐後の影響により肥後で国人一揆が起こったため、中止になったといわれている。しかし、中止した理由はその後も検討され、以下のような説が提唱されている。
(1)専制君主特有の単なる気まぐれ。
(2)たった1日で秀吉の自己顕示欲が満たされた。
(3)参加者のあまりの多さに、秀吉が茶を点てるのに疲れてしまった。
(4)開催直前になって、1日だけの開催に変更されていた。
しかし、秀吉は九州征伐を終えて、自らの威勢を天下に知らしめたのだから、所期の目的を達成したといえよう。なお、昭和11年(1936)10月1日には、北野大茶会の350年を記念し、昭和北野大茶湯が催された。