Yahoo!ニュース

【昭和100年】湯宿に残る「天城越え」の「誰かに盗られるくらいなら、あなたを殺していいですか」の理由

山崎まゆみ観光ジャーナリスト/跡見学園女子大学兼任講師(観光温泉学)
「白壁」に展示(写真提供「白壁」)

修善寺駅から山奥に吸い込まれるようにバスで四〇分揺られると、天城連山に囲まれた 静かないで湯集落に辿り着く。 橙色の瓦屋根となまこ壁が印象的な「白壁」(令和二年までは「白壁荘」)の暖簾をくぐ ると、白壁に天井まで伸びる柱、太い梁と床はこげ茶で統一された温かみのあるロビー。 天井から吊るされた長 なが 提ちょう 灯ちん のほのかな灯りで、磨き上げられた床の艶がわかる。光が入 る窓際に、小さな囲炉裏を囲む居心地のいいソファーがある。 大女将の宇田倭玖子さんは、かつてそのソファーで寛ぐ作詞家・吉岡治に、代表作「天城越え」の歌詞について、率直な質問をぶつけた。

「白壁」ロビー(撮影・筆者)
「白壁」ロビー(撮影・筆者)

「『誰かに盗られるくらいなら、あなたを殺していいですか』なんて、すごく切羽詰まっ た言葉があるじゃないですか。なんであんなことを書いたんですか?」と。 吉岡治は「僕がまだ貧乏だった頃ね、オンボロアパートに暮らしていて、隣の部屋から 派手な夫婦喧嘩が聞こえてきたんだよ。それを思い出してね。いまだから言える話だけど ね」と冗談交じりに返したという。 「『あれはリアルな体験だったんですね』、なんて吉岡先生とお話ししました」と倭玖子大女将はしみじみと述懐する。 石川さゆりが女の情念を歌い上げる「天城越え」は、いまや日本を代表する演歌(歌謡 曲)と言っても過言ではない。 その「天城越え」が生み出され、ヒットしていった過程を倭玖子大女将はつぶさに見て いた。

予約はコロムビアレコードの中村一いっ 好 こう ディレクタ ーが電話をしてきた。滞在の目的には特に触れずに、 ただ「僕たちは音を出すから迷惑がかからないよう に、人里離れた部屋にして欲しい」とだけ伝えてきた。 「川べりの一〇畳二間の広いお部屋をお取りしまし た。フロントから遠く不便ですが、川に近く、瀬音 が聞こえる情緒のあるお部屋です」(倭玖子大女将) 昭和六十(一九八五)年八月に二泊三日で吉岡治、 作曲家・弦 げん 哲 てつ 也 や 、中村一好ディレクターがやってきた。 「弦さんはギター一本持たれ、白いパンタロンをは き、カッコよかったです。その頃はまた歌手として 活動されていましたしね」

滞在中は三人で、歌詞に出てくる浄 じょう 蓮 れん の滝やわさび沢、天城山隧 ずい 道 どう をレンタカーで回 った。 そもそも中伊豆で暮らす人にとって、天城峠を越えるのは難所中の難所であったために、 明治三十八(一九〇五)年に現在の伊豆市と賀茂郡河 かわ 津づ 町を結ぶ全長四四六メートルの天 城山隧道が開通した。川端康成の『伊豆の踊 おどり 子こ 』や松本清張の『天城越え』等の文芸作品 にもそうした背景を踏まえて「天城トンネル」として出てくる。 天城の歴史にとって重要な「天城トンネル」は、切り出した石で作られている。いつ訪 れても水音がして、びっしりと苔がはびこっている。その雰囲気が吉岡治の琴線に触れた のだろうか。 『周辺をめぐり歩いた吉岡が、地名をどんどん書き込んで、歌詞が長めになるのに、弦が ギターの弾き語りで、メロディーを添わせていった』(東京新聞平成十七年五月二十三日 付夕刊 音楽評論家・小西良太郎氏「昭和はやり歌考」) 滞在中の食事は、旅館で出す通常の料理。当時のメインの料理は猪 しし 鍋なべ 。天城産の猪肉を 使った鍋や天城名物の肉厚のしいたけ、爽やかさと甘さが残る天城わさび。酒のつまみは わさび漬け。 「夕食後の深夜に、日本酒の熱燗を持って行ったこともありましたね」 と倭玖子大女将は回想する。

※この記事は2024年6月5日発売された自著『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』から抜粋し転載しています。

(写真提供「白壁」)
(写真提供「白壁」)

観光ジャーナリスト/跡見学園女子大学兼任講師(観光温泉学)

新潟県長岡市生まれ。世界33か国の温泉を訪ね、日本の温泉文化の魅力を国内外に伝えている。NHKラジオ深夜便(毎月第4水曜)に出演中。国や地方自治体の観光政策会議に多数参画。VISIT JAPAN大使(観光庁任命)としてインバウンドを推進。「高齢者や身体の不自由な人にこそ温泉」を提唱しバリアフリー温泉を積極的に取材・紹介。『行ってみようよ!親孝行温泉』(昭文社)『女将は見た 温泉旅館の表と裏』(文春文庫)『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』(潮出版社)温泉にまつわる「食」エッセイ『温泉ごはん 旅はおいしい!』の続刊『ひとり温泉 おいしいごはん』(河出文庫)が2024年9月に発売

山崎まゆみの最近の記事