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小牧・長久手の戦い前夜、なぜ織田信雄は2人の家臣を殺害したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
羽柴秀吉を演じるムロツヨシさん。(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、小牧・長久手の戦いの模様だった。戦いの発端は、織田信雄が2人の家臣を殺害したからだが、その辺りを検討することにしよう。

 天正12年(1584)3月、織田信雄は家臣の津川義冬、岡田重孝に切腹を命じた(「吉村文書」)。その理由は、2人が身勝手な振る舞いをしたからである。信雄による2人の家臣の粛清は、小牧・長久手の戦いの発端になった。

 信雄は義冬、重孝を殺害する際、徳川家康と相談したという。信雄が秀吉に対抗すべく、家康と結んだのはたしかなことである。義冬は斯波義銀の子で、信雄の家臣となった。『川角太閤記』によると、義冬は秀吉から書状を送られ、味方になるように誘われたという。

 重孝は、信長の馬廻で星崎城(名古屋市南区)主だった。本能寺の変後、信雄に仕えた。『当代記』によると、重孝は秀吉から気に入られたと言われている。ただ、いずれも二次史料の記述にすぎず、確証はない。

 織田方の史料によれば、2人は秀吉に人質を送っており、通じていたという(「香宗我部文書」)。『兼見卿記』同年3月9日条によると、義冬と重孝は諸事について、秀吉が国の支配などを申し付けた人だったと書かれているので、秀吉と信雄の2人に両属していたことになる。

 秀吉は信雄を補佐していたが、常時身辺にいるわけではなかったので、義冬と重孝に対して指示を行っていたと考えられる。2人は、付家老的な存在だったといえよう。このような事情があったので、秀吉は2人の粛清に立腹し、どのような理由で成敗したのかと疑念を抱いた(『顕如上人貝塚御座所日記』)。

 本能寺の変後、著しく台頭した秀吉に対して、信雄は脅威や不満を徐々に抱いたのは疑いないだろう。しかし、秀吉と戦うには信雄の独断ではなく、家中の了承を取り付ける必要があった。

 おそらく義冬と重孝の2人は、秀吉と戦うことに反対したと考えられる。2人に秀吉の息が掛かっていたならば、当然反対したことだろう。結果、反対したことが秀吉に通じていると受け取られ、信雄による粛清につながったのではないか。2人の殺害は、秀吉との交戦へのメッセージだったといえる。

 小牧・長久手の戦いは、信雄が秀吉の息の掛かった2人の家臣を殺害したことが発端となった。信雄は単独で秀吉に対抗できなかったので、家康を頼ったということになろう。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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