春節の憂鬱
「本当は春節に実家に帰りたくない。とても憂鬱」
彼女はそう言うと、黒目勝ちな大きな瞳を伏せた。ため息混じりの小さな笑いが漏れた唇は、ぽってりとして口紅が映え、両方の口角が僅かに上がると、清楚で優しい印象を与える。日本に留学経験のある彼女は、女優の綾瀬はるかに似ている、とよく言われたそうだ。それも十分納得できた。河南省出身、北京で一人暮らしをする29歳の独身女性である。
中国はまもなく新年を迎える。春節と呼ばれる旧正月だ。家族や親戚が一堂に会する、中国人にとって最も重要なイベントである。太陽暦で一年が進む日本人の感覚からすると、春節は、毎年日付が変わる。今年は2月5日。その前後は、日本の正月と同様、大型連休となるため、中国国内では2週間ほど前から帰郷ラッシュが始まる。中国政府は、Uターンラッシュも含め、今年は延べ30億人近くが、鉄道や飛行機で移動すると予測する。
冒頭の女性も、すでに1月末に北京を発つ鉄道のチケットを買ったという。そんなに嫌なら帰らなければいいのにと思うが、「中国で春節に帰らないのは、あり得ない」のである。その健気に守る風習が、彼女を憂鬱にする理由はというと、帰郷すると、こんな風なプレッシャーが待っているからという。
「何故ボーイフレンドがいないのか?男なら誰でもいいから早く結婚しなさい」
彼女は一人っ子政策の時代に生まれた。兄弟姉妹はいない。だから、両親と祖父母からのプレッシャーを一身に浴びる。さらに親戚も加勢する。
彼女によれば、そのプレッシャーは大学を卒業した頃から始まった。25歳の頃から激しさを増し、30歳を目前にした今は、マックスに達したという。
「大学生の時は、男女が付き合ったらすごく怒られるのに、卒業した途端、今度は、『ボーイフレンドはいないのか。早く結婚しろ』って言われて、おかしいわ」
数週間前、私の日本の友人が北京に旅行に来ていた。40代の独身姉妹である。初めて見た万里の長城に声を上げて感激し、評判の甘栗を入手しようと庶民に紛れて寒空の下で列を作り、酒が入れば機関銃のように喋り、それでも足りずホテルのバーをハシゴするという、元気いっぱいの二人だった。
その独身姉妹の例を出し、結婚はしなくても、生き生きして楽しそうだったよ、と話しても、「日本や欧米なら、自分がよければ女性でも結婚しなくてもいいけど、中国の社会では許されない。年齢が高くなって結婚しないと、どこか問題があるのかと思われる」と表情は沈んだままだ。
彼女に今、ボーイフレンドはいない。音楽関係の華やかな世界に身を置く彼女だが、周囲にはまともな男がいないのだと嘆く。にもかかわらず、ただ、とにかくそのプレッシャーから逃れたいために「早く結婚したい」という。挙句の果てに、「見た目も年齢も気にしない。日本人でも中国人でもいいから、誰か紹介して」と頼み込まれてしまった。
そんな彼女がこう嘆く。
「男の人はまだいいけど、ある程度、年齢のいった女の人は、特にそう。春節なんて言って華やいだ雰囲気を作っているけど、大人は皆、ちっとも楽しくなんかない」
ところが、結婚したとしても、まだ気を抜けない現実があった。
「家族で集まりたくない。仕事をしていたい」
大型連休を返上してまでも、会社に出ていた方がいいくらいだと話すのは、北京で企業に勤める28歳の女性。結婚4年目。すでに結婚という大イベントに勝利した「勝ち組」のはずだが、春節はその彼女さえも憂鬱にさせるらしい。きれいな二重の理知的な目が、メガネの奥で力なく笑う。
「春節は出勤より大変です」
北京出身の彼女は、やはり北京出身の男性と結婚している。だから帰郷する必要はないが、春節には自分の親戚が集まり、夫の親戚が集まるので、そこには参加しなくてはいけない。そこで彼女を苦しめるのが、質問責めだという。
「体調は大丈夫?」
「仕事が忙しいの?」
彼女曰く、その真意は、「早く子供を産め」というプレッシャーである。自分の両親、夫の両親、健在の祖父母を含めると、8人からの期待とプレッシャーを背負う。最近参加した祖父の誕生パーティーの際には、親戚22人が集まり、その全員に同じ質問をされた、と呆れる。
「いつ産むつもり?」
彼女自身もいずれは子供が欲しいと思っている。しかし今ではない。でも、両親をはじめとする親戚たちは、そんな彼女の気持ちはお構いなしだ。
物と情報が溢れる社会で育った世代は、親の世代とは生活スタイルや価値観が変わった。中国社会を全体で見れば、まだその変化を消化しきれていない。古式ゆかしき春節の到来を前に、そんな世相が見え隠れする。
結婚4年目、今はまだ子供は欲しくないという彼女が言う。1歳年上の夫も同じ考えだ。
「まだ若いので、2人で過ごす時間を大切にしたいのです」