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【深掘り「どうする家康」】徳川家康が大ピンチに陥った、三河一向一揆の全貌とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、三河一向一揆が描かれていた。徳川家康を大ピンチに陥れた三河一向一揆について、深掘りすることにしよう。

 家康は今川氏と抗争を繰り広げつつ、三河国内の支配を進めていたが、驚愕する大事件が起こった。永禄6年(1563)9月から翌年3月まで続いた、三河一向一揆の勃発がその大事件である。

 一向宗(浄土真宗)本願寺派の有力寺院は矢作川流域に多数あり、寺内町を建設して当該地域の流通などを掌握するなどし、自治を展開していた。一方の家康も着々と三河の領国支配を進めていたので、両者が激突するのは時間の問題だった。

 一向一揆とは、室町・戦国時代に近畿・北陸・東海地方を中心に起こった一向宗(浄土真宗)門徒による一揆である。僧侶、門徒の農民に加えて、名主・地侍を巻き込んで守護や荘園領主と戦った。中には加賀一揆のように一国を支配するケースもあった。

 一向一揆は戦国大名を脅かす一大勢力になったが、天正8年(1580)の石山合戦で大坂本願寺が織田信長に敗北し、以後は衰退の一途をたどっていった。つまり、家康の時代には、まだまだ強大な力を保持していたのだ。

 桶狭間合戦後、家康は岡崎復帰を果たし、三河支配を精力的に行った。しかし、家康の採用した政策は、農民や寺院へ負担を課すだけでなく、同時に一向宗寺院の不入特権を侵した。一向宗寺院は大きな既得権益を持っていたため、家康に猛反発したのである。

 三河国内では一向門徒に加え、反対派の国人・土豪、農民が家康に反旗を翻した。大きな痛手となったのは、松平家臣団の一部が一揆勢力に加わったことである。本多正信、本多正重、渡辺守綱、蜂屋貞次、夏目吉信、内藤清長といった面々である。

 必然的に家康は苦境に立たされ、これまでの人生のなかで最大の苦境を迎えた。しかし、家康は粘り強く一揆勢と戦い抜いた。

 家康は鎮圧までに半年余の期間を要し、苦戦の末に一揆勢力を退け、本願寺派寺院を破却した。結果、三河の本願寺派は天正11年(1583)の赦免、復興までの約10年の間、十分な活動ができなかったのである。

 一揆の平定後、家康は家臣団を貫高制などで再編し、反対派の国人らを家臣団から一掃した。家康の家臣のなかには、信仰と家康への忠誠との狭間で、いずれを選択するか苦悩する者もいた。戦後、家康は帰参を希望する者があれば、喜んで迎えたといわれている。

 こうして家康は家臣団の結束を固め、より強固な支配体制を築き上げたのである。家康はこの危機を乗り越え、たしかな足取りで、その後の運命を切り開いていったのだ。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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