大人の日帰りウォーキング 旅の途中で史跡を見学し、自分の頭も刺激しながら1日18km歩く一人旅
日帰りで歩く旅を続けてきて、今回で8回目になる。
江戸東京日本橋を起点として、江戸時代に整備された五街道。その、五街道の1つである中山道を歩いてきた。東京から埼玉県を経て群馬県まで来ており、ここまで歩いた距離は100kmを越えて長野県へと向かっている。
日帰りで歩き繋いでいるので、当然現地までの移動距離も長くなってきた。
電車で移動しているが、移動時間も料金もそれ相応になってきたが、まだ日帰りで頑張っている。
今回は群馬県の安中宿を出発し、松井田宿までの約18kmを歩く計画にした。途中に立ち寄りたい場所もあるので、朝9時にはJR安中駅を出発したい。
途中にある高崎駅まで新幹線を使えば時間が短縮できるが、もちろん、そんな贅沢はしない。子育てを卒業する年齢のおばさんである私は、子育てに学費にとお金を使い果たしたので、自慢では無いがお金は無い。
在来線を乗り継いで、移動時間は片道3時間もかかるが、朝は6時前に自宅を出発し、群馬県にある安中駅に予定通り到着出来た。
安中駅を出発し、すぐ前を走る国道18号を歩いて碓井川に架かる橋を渡ると、旧中山道は国道18号より左側に分かれて進んで行く。道路の左側に安中郵便局があり、入口の脇に安中宿本陣跡を書かれた木柱と古い石碑があった。
安中宿は、江戸より15番目の宿場で、安中城の城下町であった。城内には藩の役人の職場である会所や武家長屋が並んでいたとあり、江戸時代後期の建物を修理復元して展示されているので、見学したいと思っていた。
旧中山道を歩き進み、武家長屋を見学しようと右に曲がり歩き進んだその先に安中藩武家長屋と、安中藩奉行役宅があった。
かやぶき屋根が立派な建物ではあるが、結構大きくて部屋数も多い。部屋の中も見学させて頂き、当時の暮らしを思い浮かべる。
江戸時代末期である1800年代に建てられたとされている趣のある建物であり、南側にある外廊下が気持ちよさそうだと、庶民の感想しか出てこない自分が残念でもある。そして、屋内には享保雛(ひな)が展示されていた。
始めて享保雛を見た。
江戸時代中期の享保年間(1716年~1736年)に流行したひな人形の一種で、豪華な衣装や小道具が特徴と言われている享保雛。
裕福な商人が所有するようになり、江戸では大型の雛飾りを競い合う風習で華美になり、幕府から「奢侈(贅沢のこと)禁止令」が出される原因になったとある。
人形の顔が特徴的だなと思い検索してみると、享保雛の顔は能面師が作ったとあり、なるほどと納得する。人形の衣装や冠などを見ても、とても豪華な作りだと素人の私でも解る。これが1700年代に造られた物かと感心すると共に、当時の人々のひな人形に対する思いの大きさが伝わってくる。今から300年も前のひな人形か。しれっと展示されている享保雛に気品を感じる。
武家屋敷を見学した後は、次は武家長屋へと向かう。
復元されている武家長屋は安中藩で一般的な規模で、中位の身分の藩士が住んでいたと説明版に書かれている。現存していた3軒分に取り壊されていた1軒分を新築して4軒長屋として公開されている。
こちらもかやぶき屋根の立派な建物だ。室内は上座敷に床の間、下座敷と、当時の武士の生活がここにあったと感じる。部屋数が少ないようにも思えるが、当時は江戸時代である。確か江戸の町民の長屋暮らしでは畳6枚の一部屋で暮らしていたとある。もちろん武士と町民では一概に比較は出来ないが、江戸では下流の武士も長屋暮らしをしていたともあるので、豊かな暮らしであったかもしれない。部屋の脇にどっしりと長持が置かれていた。
旧中山道へと戻り再び歩きはじめると、街道沿いに立派な蔵造り建物があった。とりあえず、写真に収めて先へと歩き進み、後で調べると薬局とあったが詳細は良く解らなかった。
更にもう少し進むむと、再びお店に目が留まる。大正時代を思わせる建物であるが、江戸時代の天保3年創業の醤油醸造所だった。天保3年を調べると1832年とあり、2024年の192年前になる。お土産に買って帰ろうかと思ったけれど、今日はまだ先が長いのでこのまま進むことにした。高崎市内の旧中山道を歩いていた時にも醤油醸造所があったのを思い出した。あの時もお土産買わなかったかな。
国道18号を渡り歩き進むと、杉並木が見えてくる。天然記念物安中原市杉並木と言われており、一時は日光杉並木にも負けない見事な杉並木を称賛されていたとあり、天保年間には700本以上もあったと言われているが、交通量の増加に伴い枯れてしまい、現在ではわずかばかりが残るのみとあるが、街道脇に立派な木が立ち並んでいた。
・大名小路(旧安中藩郡奉行役宅)安中市ホームページ 外部リンク