帝京高出身では初の首位打者・松本剛の高校時代
パ・リーグの首位打者とベストナインを獲得した松本剛(日本ハム)は11月26日、NPBアワードで侍ジャパン・栗山英樹監督から「神様は見ているな」と言葉をかけられた。11年目の苦労人へ、最高のねぎらいだった。
なにしろ、2012年のプロ入り以来、なかなかポジションが固定しない。内野手登録ながら、15年あたりからは外野守備にもつき、翌年からはほぼ外野に。だが西川遥輝(楽天)、大田泰示(DeNA)らのいた一角に、なかなか食い込めずにいた。2人が移籍した今季は、開幕から四番を務め、好調を維持。だが7月、自打球を当てて左膝蓋骨下極骨折のアクシデントに見舞われた。
選出されていたオールスターゲーム出場を辞退し、8月も尾を引いたから、タイトルが遠のきかける。それでも新庄剛志監督はDH、代打などで松本を起用して首位打者レースをアシスト。本拠地最終戦となった9月28日のロッテ戦、代打で起用されてようやく規定の443打席に達した。最終的には、ぎりぎりの445打席。自身、規定打席に達したのは17年以来2度目のことだった。
帝京高出身。OBには中村晃(ソフトバンク)ら好打者がいるが、帝京出身者としては初めての首位打者獲得だ。
投手よりも野手を選択して大谷からヒット
高校時代、何度か話を聞いたことがある。埼玉・川口リトルでは、谷田成吾(のちJX-ENEOSほか)らとともに、投手兼遊撃手として世界大会で準優勝。リトルリーグの聖地である米国・ウィリアムスポートの大観衆を体験した。
帝京に進むと、当時の前田三夫監督は、松本にはピッチャーをやらせたかった。中学時代には陸上部に所属し、400メートルで埼玉県大会優勝という抜群の身体能力があったからだ。
だが松本が選択したのは野手。「なんとしても1年からレギュラーになりたかった」ためだ。
「同学年には(伊藤)拓郎(元DeNA、現日本製鉄鹿島)がいて、ピッチャーでは厳しいかな、と。それなら守備に自信があるから、野手に専念しようと考えました」
その青写真どおり、1年の夏にショートの定位置を獲得し、九番・ショートとして09年夏に甲子園デビューも果たした。そのときは、伊藤拓郎が最速147キロをマークしてあまり目立たなかったが、松本も安定した守備を見せ、九州国際大付(福岡)戦では9回、サヨナラ勝ちを呼ぶヒットを放つなどでベスト8進出に貢献している。翌10年センバツでも、優勝する興南(沖縄)に敗れたもののベスト8。だが夏は出場を逃し、松本は打撃改造に取り組むことになる。
「もともとホームラン打者ではないんですが、それにしても長打が少ないし、体も細い。もともとプロ野球選手が夢。このままじゃプロには行けないという危機感から肉体改造に取り組んだんです」
トレーニング量を倍にし、体重を増やすためにプロテインも服用すると、体重は5キロ増の80キロに。さらに、フォームを改造したことで飛距離が劇的に変わった。
帝京のグラウンドは、東京都板橋区・住宅地の真ん中にある。レフトは90メートルほどとコンパクトだから防球ネットが張られ、その後方に5階建ての校舎がある。3年になった松本がある日放った打球は、4階まであるネットを越え、たまたま開いていた校舎5階の窓に飛び込んだ。あるいは、
「左翼線の何メートルかは校舎が途切れていて、その向こうに駐車場があるんですが、そこを飛び越え、校外の道路まで達したことがありました」
推定飛距離はおよそ140メートル。松本は、高校通算で33本塁打しているが、そのうち23本が3年になってからのものだ。そして……3年夏の甲子園では、花巻東(岩手)と対戦した。7対7と同点の7回だ。四番に座った松本は、救援登板した当時2年の大谷翔平(現エンゼルス)から決勝打を放つことになる。
それから11年、苦労が首位打者として報われた松本。「あきらめずにやってきてよかった。来年以降も……」と笑顔を見せたという。