【光る君へ】ちょっと気になる一条天皇と藤原彰子との関係とは?
大河ドラマ「光る君へ」では、一条天皇と藤原彰子との関係がうまくいっていないようで、やきもきした視聴者も多かったはずである。この点について、考えることにしよう。
一条天皇が誕生したのは天元3年(980)のことで、中宮として藤原定子(道隆の娘)を迎えたのは正暦元年(990)のことである。当時、定子は数え歳で15歳で、一条天皇は4歳年下の11歳だった。非常に幼いカップルの誕生である。
2人は幼かったとはいえ、互いに深く愛し合っていた。しかし、長徳元年(995)に父の道隆が亡くなると、定子の運命は暗転しだした。翌年には兄の伊周が長徳の変で失脚し、その影響が定子にも及んだ。
検非違使が伊周・隆家兄弟を探し出すため、定子の邸宅を手荒に捜索したので、ショックを受けた定子は発作的に髪を切った。このことは、周囲から出家したとみなされ、定子の立場が危うくなったのである。
これまで出家した女性が中宮になった例がなかったので、周囲の一条天皇や定子に対する反発は少なからずあった。しかし、一条天皇はさまざまな策を使って、愛する定子との関係を続けたのである。
長保元年(999)11月、藤原彰子(道長の娘)が一条天皇に入内した。彰子は数え歳で12歳だった。長保2年(1000)2月、彰子は中宮となり、定子は皇后になったのである。中宮も皇后も天皇の正妻のことを意味し、用語が違うだけだった。
とはいえ、一条天皇からすれば、数え歳で12歳の幼い彰子と関係することは難しかったに違いない。同年12月、定子は亡くなった。当時、一条天皇には、ほかに藤原義子、藤原元子、藤原尊子が入内していたが、彼女たちの間に子はできなかった。
彰子は、一条天皇と定子との間に産まれた敦康親王を養育した。当時、彰子は数え歳で13歳だった。その後、彰子と一条天皇との関係が良好だったのか否かは知る由もないが、彰子の父の道長は一刻も早く2人の間に男子が誕生することを願ったであろう。
彰子と一条天皇との間に敦成親王(のちの後一条天皇)が誕生したのは、寛弘5年(1008)のことである。彰子は、数え歳で21歳だった。一条天皇が定子と同じように彰子をどこまで深く愛したのかはわからないが、少なくとも子を授かることを希望したのは疑いないだろう。