トレーニング中心主義の弊害――書評:柳瀬陽介・小泉清裕『小学校からの英語教育をどうするか』
柳瀬陽介・小泉清裕『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波書店、2015)
広島大学の柳瀬陽介氏から献本を頂いた。60ページ程度の岩波ブックレットで語り口も平易であり、一気に読んでしまった。
タイトルが端的に示す通り、本書は小学校英語、とりわけ現実化しつつある小学校での英語の教科化(小5~)および早期化(小3~)について、現状の問題点、改善策、そして将来的な展望を論じたものである。
目次
第1章 英語教育の現状:ことばが身につかない「引用ゲーム」
トレーニング中心主義による情感の剥奪
英語指導の実態の理解不足
第2章 実施計画の危うい基盤
数値目標による管理
客観試験への過信
浅薄な「グローバル化」概念
第3章 小学校からの英語教育再創造
確かな芽生え
身体実感を信じて
「トレーニング中心主義」
本書には意義深い指摘が数多くあるが、そのなかでも「トレーニング中心主義」批判に注目したい。
トレーニング中心主義とは何だろうか。著者らは次のように説明する。
著者らがトレーニング中心主義に対し批判的な理由は明快である。つまり、トレーニング中心主義は公教育の理念と反している、ビジネスパーソンや軍人(※1)ならまだしも、児童・生徒に押し付けてはいけない、というものである。
- ※1 実際に、アーミーメソッドと呼ばれる軍人向けの言語教育プログラムが存在する。
一方、著者らがトレーニング中心主義に対置するのは、感情・身体・思考を統合した状態での外国語学習である。トレーニング中心主義では感情、身体、思考がばらばらに扱われてしまい、それは公教育が保障すべき豊かな学びを阻害するものである、と。
トレーニング中心主義の内在的批判
その意味で、本書はトレーニング中心主義に対する外在的批判を行っていると見ることができる。理想的な教育理念を設定したうえで、その理念からいかに逸脱しているか、そしてその逸脱はいかに妥当性にかけるかを論じているからだ。
一方で、トレーニング中心主義に対しては内在的批判も可能である。つまり、仮に「学校英語教育は英語のトレーニング、それ以上でも以下でもない」という主張(いわばトレーニング中心主義の強い型である)を認めてしまうと、様々な点で論理的矛盾が噴出してしまい、当初の主張は瓦解してしまう、よってダメだ!といったタイプの批判である。
内在的批判のロジックは若干ややこしいが次のようなものである。
1.トレーニング中心主義は、英語力育成以外の抽象的な目的論を排除し、一定の説得力を持つ
実際、「英語の授業なんだから英語(のトレーニング)だけやればよい、英語以外の心とか思考力とかそういうものはどうでもいい」という主張にはそれなりに人気がある
2.この主張が説得力を帯びたのは、「英語」という教科の制度化に成功したからこそである
なぜなら、もし仮に「国際理解」という教科が制度化されていたら、「英語だけやればいい」なんて主張はナンセンスになってしまうのだから。
3.しかし、制度化は、心とか思考力とかそういう抽象的な目的論のおかげで達成できた
戦後初期には英語科はまったく制度化されておらずその存立基盤もきわめて脆弱だった。英語科がなんとか「事実上の必修教科」にアップグレードできたのは、英語教員が工夫して抽象的な理念を構築したからこそ。
つまり、トレーニング中心主義の説得力は、心とか思考力とかのおかげで獲得されたものであって、別に「トレーニング中心主義」そのもののなかに正当性があるわけではない、ということである。これは、トレーニング中心主義が抱える論理的矛盾であり、その意味で、内在的な問題点である。ちなみに、この内在的批判は拙著『「なんで英語やるの?」の戦後史』の主題である(とくに終章で詳細に論じている)。
最後は我田引水のようになってしまった(そもそも内在的批判の部分のほうが分量が多い!)。たいへん失礼しました。ただ、内在的にせよ外在的にせよ、トレーニング中心主義には問題が大きいことは確かだろう。しかし一方で、その問題に気づかせずに大きな(粉飾された)説得力を放ち続けるのがトレーニング中心主義の手強いところだろう。この点は、先日の書評でも論じた新自由主義的教育観の手強さ(矛盾だらけなのに矛盾を感じさせない)とも表裏一体である。