盗んだ機材で被曝した、ゴイアニア被曝事故
世界では時おり原子力事故が起きており、それによって多くの人が亡くなることもあります。
しかし原子力事故といったら大掛かりなトラブルなどを想像する人も多いものの、中には明らかに人災としか思えない事故も発生しているのです。
この記事では人災によって多くの被害者を出した、ゴイアニア被曝事故について紹介していきます。
放射線源を盗んだ若者、放射線源を見せびらかした解体業者
1987年にブラジルのゴイアニア市で発生した放射線事故は、無知と無関心が引き起こした悲劇の一例として知られています。
この事故の発端は、移転のために廃院となった放射線治療施設に放置されていた治療装置が盗まれたことでした。
この施設は1971年に認可され、1985年に移転が進められました。
しかし放射線治療に使用される137Cs(セシウム137)を含む装置は、所有権を巡るトラブルから放置されたままだったのです。
この線源は、直径36.3ミリメートル、高さ47.5ミリメートルの円柱形であり、当時の放射能は50.9テラベクレルに達していました。
通常、このような強力な放射線源は、遮蔽装置の中に保管されており、ダイヤルキーで安全に操作される仕組みとなっています。
しかし、1987年9月13日、二人の若者、ロベルト・ドス・サントス・アウヴェスとワグナー・モタ・ペレイラが、この廃墟となった病院に高価な物品があるとの噂を聞きつけ、侵入しました。
彼らは、放射線治療装置の一部を盗み出し、ロベルトの自宅に持ち帰ります。
彼らは盗難から数日後、嘔吐やめまい、下痢といった症状が現れました。
しかし放射線の危険を知らなかった彼らはまさか放射線による症状であるとは夢にも考えず、これらの症状の原因を食あたりだと思い込み、医師に相談することもなかったのです。
事態が急変したのは9月18日、ロベルトが線源容器にドライバーで穴を開け、中の粉末を火薬と勘違いして火をつけようとしたことがきっかけでした。
線源から漏れ出したセシウムは彼の自宅や周辺地域を強く汚染し、その汚染は毎時1.1グレイという高濃度に達したのです。
その後、ロベルトはこの線源容器を解体業者のデヴァイル・アウヴェス・フェレイラに売却し、事態はさらに悪化します。
デヴァイルは、自宅に持ち帰った線源容器が青白く光っていることに気づき、友人や家族に「光る粉」を見せました。
この粉はセシウム137であり、放射線を放出し続けていたのです。
デヴァイルやその家族、知人たちは無邪気にこれを触り続け、最終的には彼らの多くが重度の放射線障害を患うことになります。
9月28日、ガブリエラ・フェレイラが事態の異常さに気づき、線源容器を地元の保健当局に持ち込みました。
これにより、医師たちは事態を把握し始め、放射線専門家が動員され、事故の深刻さが明らかとなったのです。
最終的に、周辺住民11万2000人が放射線検査を受け、249人に汚染が認められました。多くの人々が除染を受け、重症者は海軍病院に搬送されたのです。
4名が命を落とす大惨事に
事故後、除染作業が行われ、7棟の家屋が解体され、汚染された表土が取り替えられました。
しかし、除染は現代の基準からすれば不十分であり、特に雨による放射性物質の流出対策や、廃棄物の最終処分場の不足が指摘されています。
最終的に回収された放射性物質の量は40テラベクレル (TBq) 以上で、封入されていたセシウム137のほとんどが漏出していたことが明らかになりました。
10月23日、最初の犠牲者であるデヴァイル・フェレイラの妻、ガブリエラが死亡します。推定被曝線量は5.7グレイ (Gy) で、放射線による多発性出血や臓器の壊死が直接の死因とされているのです。
彼女に続き、デヴァイルの姪である6歳のレイデも命を落としました。
彼女はセシウムに汚染された手で食事をしたことが致命傷となり、推定被曝線量は6 Gyに達したのです。
さらに、線源容器から鉛を取り出そうとした従業員イスラエルとアジミウソンが、それぞれ27日と28日に相次いで死亡しました。
彼らは高濃度の放射線にさらされ続け、再生不良性貧血や内出血により命を落としたのです。
事故後、最も高線量を被曝したデヴァイルは、長年にわたり様々な健康問題に苦しみ、最終的には1994年に癌と肝硬変で死亡しました。
この事故は、放射線被曝の恐怖を浮き彫りにし、その影響がいかに広範で深刻であるかを示すものとなったのです。
風評被害も甚大なものに
ゴイアニアの放射線事故は、地域社会に深刻な影響を与えました。
チェルノブイリ事故から間もない中、ブラジル全土でこの事件は大きく報道され、ゴイアニアの農産物価格は50%、工業製品は40%も下落したのです。
市民は放射線汚染の風評被害に直面し、非汚染証明書がなければタクシーやホテルの利用を拒否される事態に陥りました。
また、高濃度汚染地域からの強制退去に対する市民の反感も強く、線量計の破壊や測定作業の妨害といった抗議行動が見られました。
さらに、4人の犠牲者の葬儀の際には、遺体の汚染を恐れた暴徒による妨害が発生したのです。
最終的に4人の遺体は特別に鉛で内張りされた棺に収められ、墓地の外れにコンクリートで保護された墓に埋葬されました。
現在、事故の記憶を風化させないために、ブラジルのテレビ局はドキュメンタリーや再現ドラマを放映し続けており、被害者の家族もインタビューに応じています。
しかし、事故を引き起こした張本人であるロベルトは、身の危険を感じ、顔を隠して出演しているのです。
この事件は、放射性物質のトレーサビリティの厳重化や、放射線障害の早期発見、除染作業における住民との協力の重要性といった教訓を残しました。
地域住民の意見を尊重し、透明性のある決定プロセスを確立することが、今後のリスク管理には不可欠です。