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サラエボ事件を現地で辿る 「未解決の問題」

小林恭子ジャーナリスト

1914年6月28日は「サラエボ事件」が発生した日だ。これが第1次大戦勃発の引き金を引いたとされる。欧州が主戦場になったことで、各国で記念行事が開催されている。100周年を迎えるサラエボをたずねた。

各国は連合国側(フランス、英国、ロシア、イタリア、米国、日本、セルビア、中国など)と中央同盟国側(ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国、ブルガリアなど)とに分かれて戦った。戦場は中東、アフリカ、アジア太平洋地域にも広がった。これまでにないほどの数の死者、犠牲者が発生し、飛行機や戦車が初めて本格的に導入された。化学兵器が初めて使われたのも第1次大戦だった。国家が総動員された大きな戦争で、参戦した国の国民一人ひとりが多大な影響を受けた。

サラエボ事件とは

サラエボ事件とは、オーストリア・ハンガリー帝国のフェルディナント大公夫妻が、サラエボ(現在、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)で暗殺された事件だ。

この地域はオスマン・トルコ帝国の傘下にあったが、1908年、オーストリア・ハンガリー帝国に併合された。

ボシャニク人、セルビア人、クロアチア人など複数の民族が住み、セルビア人の一部は国境を接する隣国セルビアやほかの南スラブ諸国との統合を望んでいた。セルビア人住民の中で、併合を不服と思う民族主義のグループが大公の暗殺を計画した。

1914年6月28日、帝国の次の皇帝になるはずだった大公と妻のソフィアは、サラエボを表敬訪問した。このとき、夫妻は暗殺グループの攻撃にあった。それも2回、である。1回目は、夫妻が乗っていたオープンカーに爆弾を投げ込まれた。夫妻は難を逃れたが、同乗していた関係者が負傷した。大公夫妻はその後市庁舎を訪れた。次の訪問場所に移動する際になって、大公は負傷者が収容された病院に見舞いに行くと主張した。

現在のラテン橋の様子
現在のラテン橋の様子

午前10時過ぎ、夫妻らを乗せた車は市内のラテン橋を渡り出した。このとき、グループの1人で19歳のボスニア系セルビア人のガブリロ・プリンツィプがピストルを夫妻に向けて発射した。大公はのど元を撃たれ、妻は腹部を撃たれた。2人は間もなくして亡くなった。大公の最後の言葉は「子供を頼むぞ」だったと言われている。

プリンツィプはその場で警察に押さえつけられた。数人が逮捕され、裁判の後に暗殺グループは有罪となった。プリンツィプは持病の結核が悪化し、受刑中の1918年に亡くなった。

後に、暗殺グループの1人が武器はセルビア政府から支給されたと告白。7月末、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビア政府に宣戦布告した。

サラエボ博物館がすぐ側に

サラエボ博物館
サラエボ博物館

大公夫妻が打たれたラテン橋から、通りを隔てた向かい側に面する建物は今、サラエボ博物館になっている。100周年を記念し、建物の外には大公が乗っていたオープンカーのレプリカらしい車が展示されている。路上にはプリンツィプが立っていた場所を示すスタンドが置かれている。その位置に立ってラテン橋を眺めると、プリンツィプの視線の先が分かる。

「博物館」といっても、一部屋だけの展示であるが、大公夫妻の姿の模型が置かれている。大公夫妻を乗せた車に暗殺グループがどの地点で攻撃をかけたのかを表わす地図もある。

28日の100周年記念に、サラエボは「平和のメッセージ」を世界中に送る予定だ。

1990年代の内戦で損傷を受けた市庁舎ホールでは、夕方、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団による記念コンサートが予定されている。「欧州放送連合」(EBU、1950年発足、本部スイス・ジュネーブ)の加盟局となる3つの公共放送―BHRT(ボスニア・ヘルツェゴビナ国営放送)、フランスの「フランス・テレビジョン(TF1)」、ドイツの「第2ドイツテレビ(ZDF)」が協力して制作にあたり、各国で放送される。

第2次大戦後、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア連邦のなかの共和国の1つとなった。92年にユーゴから独立するが、イスラム教徒、セルビア系、クロアチア系による内戦(-95年)が発生した。

現在はイスラム教徒とクロアチア系の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と「セルビア人(スルプスカ)共和国」とで「ボスニア・ヘルツェゴビナ」という1つの国家をなす。

しかし、異なる民族間の緊張は消えていない。大公を暗殺したプリンツィプは、オーストリア・ハンガリー帝国という支配者に異議を申したという点で、セルビア系住民にとっては英雄だ。しかし、ほかの民族にとっては暗殺者だ。

ラテン橋はかつてプリンツィプ橋と呼ばれていたが、非セルビア系住民からの反発で中立的な名前となった。ピストルを撃ったときにプリンツィプが立っていた場所は路上に足型がつけられていたが、これも取り去られたという。

「サラエボが第1次大戦を起こしたのではない」

サラエボのジャーナリストで元国連クロアチア大使だったZlatko Dizdarevic氏は、100周年記念行事をサラエボで行うことは「皮肉だ」という(南欧、トルコ、コーカサス地方の問題を研究するシンクタンク「OBC」ウェブサイト、5月21日付)。「ボスニアヘルツェゴビナや国民にとって何の意味もない。プリンツィプについてさえ、こんなに意見が異なる民族が住むのだから、この国はバラバラだ」。行事の数々は「皮肉を表現しているとも言える」。

同氏は、大戦がサラエボで始まったとも思っていないという。「世界の主要大国は既に戦争の準備をしていた。サラエボに開戦の責任があったわけではないんだ」。

27日、サラエボ市内の博物館で働く学生エミール・バクダシャビッチ氏と雑談する中で、プリンツィプのことを聞いてみた。

「学校では『暗殺者』として教わってきた」。しかし、第1次大戦の勃発理由は「必ずしもサラエボ事件ではなかったと思うよ」」という。「参戦国はそれぞれ、戦争を始める理由を探していたんじゃないかな」。自分は歴史家ではないから「うまく話せないけど、そう思うよ」。

ボスニア・ヘルツェゴビナの国民にとって、「戦争」とは90年代の内戦のことだという。約20万人が命を落としたと言われている。「民族同士の対立が消えていない。第1次大戦の前から、ずっと未解決の問題なんだよ」。

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊『なぜBBCだけが伝えられるのか 民意、戦争、王室からジャニーズまで』(光文社新書)、既刊中公新書ラクレ『英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱』。本連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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