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「英国のビル・ゲイツ」と呼ばれたIT実業家リンチ氏、ヨット沈没で命を落とす 「溺死」だが、原因究明中

小林恭子ジャーナリスト
ロンドンの高等裁判所を去るリンチ氏。2019年(写真:ロイター/アフロ)

 「英国ニュースダイジェスト」掲載の筆者コラムに補足しました。

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「英国のビル・ゲイツ」?

 去る8月19日、「英国のビル・ゲイツ」と呼ばれる人物が乗っていた豪華ヨットがイタリア南部シチリア島沖で暴風雨に見舞われ、行方不明になった事件が発生しました。

 全長56メートルの「ベイジアン」号には22人が乗船しており、その安否が大きな懸念となりました。

 英メディアが一斉に事件の様子を伝えましたが、「英国のビル・ゲイツ」と言われても、当初、誰のことなのか筆者には分かりませんでした。皆さんはいかがでしたでしょうか。

 米大手IT企業マイクロソフトの創業者ゲイツ氏の名前は世界中に知られていますよね。さて、その英国版といわれていたのがマイク・リンチ(Mike Lynch)氏です。

 リンチ氏は英国のハイテク分野の新興企業への大物投資家の1人で、1996年、IT企業「オートノミー」を共同創業しました。電話での会話や電子メール、動画など体系化されていない情報から有益な情報を抽出するソフトウェアが主力商品です。2006年には実業界への貢献で大英帝国勲章(OBE)を授与され、BBCの社外取締役(2007年)、デービッド・キャメロン首相の財務顧問(11年)なども務めました。

法廷闘争へ

 11年、リンチ氏はオートノミー社を米大手ヒューレット・パッカード(HP)社に110億ドル(約1兆6000億円)で売却し、巨額の富を築きますが、買収から1年後、HP社はリンチ氏側が会社の売り上げを水増し、不当に高く売却したと主張し始めます。18年、米検察当局がリンチ氏を詐欺罪などで刑事起訴。22年、リンチ氏は米国に強制送還され、自宅に未決拘禁状態となりました。法廷闘争が続きましたが、今年6月7日、ようやくリンチ氏の複数の詐欺容疑に無罪判決が出ました。この夏のヨット旅行は家族や友人、今回裁判に関係した弁護士たちと勝訴祝いの機会だったといわれています。

救出作業の様子
救出作業の様子写真:ロイター/アフロ

 行方不明になったベイジアン号は局地的な竜巻による豪雨や強風で転覆し、海の底に沈んでしまったことが、現地の救援隊の作業によって判明していきます。乗務員を含む乗船者は22人で、そのうちリンチ氏の夫人など15人は救出されましたが、リンチ氏(59)と娘ハンナさん(18)を含む7人は遺体となって見つかりました。

 現在海底50メートルに沈むヨットは、シチリア島北東部の港を出て北西部パレルモに向かうところでした。

 沈没原因の詳細については、まだ調査が続いています。ベイジアン号の近くにいたボートの船長はヨットが不安定に見えたことを指摘しており、72メートルという世界で最長のアルミニウム製のマストが転覆の原因になった可能性もあるようです。

 ただ、ヨットの沈没に首をかしげる設計専門家たちもいるようです(「フィナンシャル・タイムズ」紙、8月24日付)。船舶の動向を無線で識別する自動識別装置(AIS)によると、ベイジアン号がいかりを引きずり始めてから沈没までに16分かかっています。もし瞬時に沈没したのではないとすると、例えば船内に水が入ってきたのかどうか、強風対策が十分だったのかどうかなどの疑問が出てきます。そうなると、船長や乗組員の責任が追及される方に向かいますよね。

 一方、気候変動によって地中海の気温が上昇し、より極端な自然現象が発生したことが遠因とする見方も出ています。

 ベイジアン号は2008年に建造され、4年前に改修されていますので、ヨット自体には最新の安全基準が採用され、航行や通信設備も水準の高いものであったことが想像できます。沈没原因についての憶測が深まるなか、命を取り留めたベイジアン号の船長はイタリア当局から過失致死の容疑で取り調べを受けました。

 9月に行われた検視では、リンチ氏の死因は溺死という仮判断が出ています。

 リンチ氏を含む犠牲者の死因を確定するための調査が行われており、10月、英国東部イプスイッチの裁判所が公判を開始しましたが、いったん休廷になっています。再開は来年4月の予定です。

 一方、ヨットが行方不明となった8月19日、リンチ氏と同罪に問われ、同様に無罪となった財務役員スティーヴン・チェンバレン氏(52)が自動車事故に遭い、亡くなっています。

 この事件がノンフィクションあるいはドラマとして番組化されるのは時間の問題でしょう。

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Mike Lynch (マイク・リンチ)

ロンドン東部イルフォード生まれのIT実業家。私立の中等学校バンクロフツ・スクールで学び、ケンブリッジ大学で信号処理技術で博士号を取得。オートノミー社(1996年)、人工知能でサイバー上の脅威を取り除く会社ダークトレース(2013年)を共同起業。英国や世界のデータ・サイエンスやデータ解析の発展に大きく貢献した。

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊『なぜBBCだけが伝えられるのか 民意、戦争、王室からジャニーズまで』(光文社新書)、既刊中公新書ラクレ『英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱』。本連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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