【戦国こぼれ話】明智光秀が天海になったというのはデタラメも甚だしいので、気をつけてください
先日、テレビを見ていると、「明智光秀が生き延びて天海になった」という説を紹介していた。大変驚いて倒れそうになったが、たしかな根拠のないデタラメである。以下、なぜデタラメなのか考えてみよう。
■そもそも天海とは
天海は、生年不詳。天文5年(1536)誕生説が有力で、寛永20年(1643)に亡くなった。これが事実ならば、100歳を超える長命だった。とにかく長生きしたのは事実だ。
なお、光秀も生年不詳。享禄元年(1528)誕生説が有力なので、天海より10歳ほど年長である。ほぼ同時代に生きた人物なのは、たしかなことであろう。
天海は天台宗の僧侶で、徳川家康の側近として活躍し、懐刀といわれたほどである。さらに、秀忠、家光の3代にわたって徳川家に仕え、江戸幕府の宗教政策に貢献した。
光秀が天正10年(1582)6月の山崎の戦い後も、生き延びて天海になったという説は、大正15年(1916)に刊行された須藤光暉『大僧正天海』(冨山房)で提起された。
以来、テレビなどで取り上げられることがあった。以下、光秀=天海説の根拠を取り上げ、考えることにしよう。
■明智平という地名
栃木県日光市には、観光地として人気スポットの明智平という場所がある。天海は光秀であったがゆえ、明智姓にちなんで「明智平」と命名したと伝わっている。
ところが、天海が「明智平」と命名したというたしかな史料があるわけではない。降って湧いたような単なる伝承にすぎない。したがって、「明智平」と命名したのは根拠がなく、天海であるとはいえない。
■徳川秀忠の名前から
江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の「秀」字は、光秀の「秀」字を採ったといわれ、光秀=天海が関与したといわれている。しかし、秀忠の「秀」字を授けたのは豊臣秀吉なので、この説は誤りである。
3代将軍・家光の「光」字についても、天海=光秀が関与したといわれているが、実際は金地院崇伝が「光」字を選んだので誤りである。天海は、秀忠、家光の命名とは関係ないのである。
■天海は関ヶ原合戦図屏風に描かれているのか
「関ヶ原合戦図屏風」(関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵)には、鎧で身を固めた天海と思しき人物の姿が描かれている。天海は戦巧者の光秀だったから、軍師的な役割を果たしたというのである。
実は、この「関ヶ原合戦図屏風」、成立は嘉永7年(1854)である。幕末に成立した合戦屏風を根拠にするなど、とうていありえないことで、光秀=天海の根拠にはならない。
■家紋や石灯籠に刻まれた光秀という名前
比叡山の天台宗松禅寺(滋賀県大津市)には、「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠がある。この「光秀」が明智光秀のことで、天台宗の僧侶・天海との関係を重視する向きがあるが、この「光秀」が明智光秀と同一人物であるとは明言できない。
日光東照宮(栃木県日光市)陽明門の随身像の袴などには、明智家の家紋・桔梗が用いられているが、これは織田家の家紋・木瓜紋である。単なる見間違いであり、光秀=天海の根拠にならない。
■光秀が天海になったというのは話にならないデタラメ
ほかにも光秀=天海説の根拠は提示されている。たとえば、童謡「かごめかごめ」という歌を暗号のように読み解く向きもあるようだが、もはや私には理解不能である。考える気にも、反論する気も起らない。
ここまで触れたとおり、光秀が生き延びて天海になったという説は、根拠のないデタラメである。光秀が天正10年(1582)6月13日に死んだことは、『兼見卿記』などの一次史料にしっかりと書かれている。それだけ挙げれば十分だろう。
したがって、光秀=天海説はまったくの想像の産物で、誤りも甚だしい。テレビなどで繰り返し特集されているが、読者諸賢にはご注意いただきたいものである。