豊臣秀吉の死後の関白はどうなったのか?
織田信長の死後、わずか3年あまりで関白の地位に就いた豊臣秀吉。1591年、甥の秀次に関白をゆずり自身は太閤として統括的な立場を取っています。
どうする家康では描写がされませんでしたが、1595年の秀次事件で関白・秀次が切腹すると一時的に現役関白が不在となりました。そして、関白空位のままで1598年に豊臣秀吉がこの世を去っています。
この時、豊臣家を息子の秀頼が5歳で継ぐのですが、年齢的な事もあるのか、関白には就任していません。
ここで一つの疑問が思い浮かんできます。
『関白・秀次が死に、太閤・秀吉がいなくなった後の関白はどうなったのか?』
今回はこの疑問を解決するために、秀吉死後の関白の行方について紹介していこうと思います。
関白とは何ぞや?摂政との違いは?
成人した天皇を補佐するために置かれた役職を関白と言います。
同じく天皇を補佐する役職として摂政がありますが、立てる理由の必要性で摂政と関白の違いが出ます。
- 天皇を支える理由がある場合:摂政
- 天皇を支える理由がない場合:関白
つまり幼少の天皇の代行や女帝を補佐する何らかの理由が生じた場合には摂政、成人した天皇を補佐する場合には関白と呼ばれました。
話がそれましたが、本題に入りましょう。
豊臣秀次事件後の関白職
秀吉が天下統一を果たすと、武士たちに朝廷の官位・役職をたくさん配ります。ちなみに官位は正一位や従三位など、役職とは大納言や太政大臣等の事を指します。
その過程で武家に公家の家格を当てはめていきます。摂関家を豊臣家に、徳川や前田、毛利などの五大老家は武家の『清華家』と定めました。
清華家(せいがけ)とは元々公家の家格の一つで、関白になれないが太政大臣に就く事ができる家柄です。三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭の7家が名を連ねていました。
そして、冒頭で述べたように関白を豊臣家で世襲させるため、甥の秀次に関白をゆずったのですが、事件で秀次が処分されると、秀吉は朝廷に対して秀頼が成人するまで関白職を空位にするように要請します。
こうして、関白職はしばらく空位となりました。なお、太閤は「元関白」を意味します。
豊臣秀吉没後の関白
秀吉が亡くなると官位を持った大名たちが都から遠ざかったうえに、公家や大名たちの死や隠居が重なり、役職不足になり朝廷運営が立ち行かなくなります。
こうして、朝廷内で最高官位が内大臣・徳川家康と言う事態を招きます。
この状態にメスを入れたのが徳川家康でした。
家康は征夷大将軍となり江戸幕府を開き、天下人となったと言われてますが、実情は豊臣秀頼が関白に就任するまでのつなぎ政権だと思われていた所がありました。
幕府設立当初、家康は豊臣家と融和路線を考えていたのか、亡き秀吉の遺言通りにまだ7歳の千姫を秀頼の正室として大坂に送っています。
また、豊臣秀頼の官位・役職も順調に進み、1601年には権大納言となっていました。
それと並行して公家衆たちにも高位に復帰もさせており、信長時代に関白だった九条兼孝を復帰させています。兼孝の関白就任は、秀頼の関白をけん制する意図もあったと考えられています。
とは言え、時期が来れば豊臣家でもいずれは秀頼を関白にしたいと考えていたと思います。
こうした豊臣家の思惑をよそに、朝廷内では関白が五摂家に帰ってきたのを機に、九条兼孝の後釜に近衛信尹を関白に就任させ『摂関職は以前のように五摂家が持ち回りでやります。』と無言のメッセージを送ります。
豊臣秀頼が役職から外れる
1605年になると、豊臣秀頼も右大臣まで上り詰めていました。
この頃の朝廷や家康は、豊臣排除の動きを見せます。
次の関白人事に、右大臣の秀頼を飛び越える形で鷹司信房が【内大臣→左大臣兼関白】に就任しました。
詳しい事は省略しますがこれを機に秀頼は、右大臣を辞職しています。
そして、家康は豊臣家滅亡後に武家官位と公家官位の切り離しを実行し、さらに『武家官位は幕府の推挙が必要』としました。この取り決めで朝廷の役職不足が解消して、武家の官位は将軍本人を除き定員外と決められます。
こうして家康と朝廷は、豊臣秀吉以前の五摂家が関白を持ち回りする旧来のシステムを復活させることに成功しました。
ともあれ、朝廷貴族からしてみれば、どこの馬の骨かもわからない秀吉に関白を奪われ、公家社会の上位を野蛮な武家に独占され、メンツをつぶされた時代を過ごしてきました。
こうした状況を利用した家康は、本来の朝廷のあるべき姿に戻して混乱を収め、京都の貴族たちを味方につけることによって、朝廷から豊臣排除の足掛かりを得ることになったのだと考えます。
※参考:豊臣秀吉以降の関白就任者
- 豊臣秀吉:1585~1592
- 豊臣秀次:1592~1595
- 空位 :1595~1601
- 九条兼孝:1601~1604
- 近衛信尹:1605~1606
- 鷹司信房:1606~1609
- 九条忠栄:1609~1612