悲惨な運命をたどった3人のキリシタン大名とは?
戦国時代、我が国にキリスト教が伝わると、信仰する大名がいた。彼らの中には信仰を続ける者もいれば、棄教する者もいた。中には悲惨な運命をたどったキリシタン大名がいたので、うち3人を紹介することにしよう。
◎大友宗麟(1530~1587)
宗麟は義鑑の子として、享禄3年(1530)に誕生した。家督を継承した宗麟は、版図拡大に乗り出し、九州北部を席巻した。天正4年(1576)、宗麟は子の義統に家督を譲ると、天正6年(1578)、にキリスト教に入信し、「ドン・フランシスコ」という受礼名を名乗った。
同年、大友氏は耳川の戦いで島津氏に大敗した。その後の大友氏は衰退傾向となり、宗麟は豊臣秀吉に軍事的支援を要請した。九州征伐後、大友氏は豊後を与えられたが、往時の勢いはなく、宗麟は天正15年(1587)に寂しく世を去ったのである。
◎小西行長(1558~1600)
行長は隆佐の子として、永禄元年(1558)に誕生した。もとは商人で、キリシタンだった(受礼名:アゴスチーニョ)。やがて、行長は豊臣秀吉に重用されると、舟奉行を任された。天正16年(1588)、宇土城(熊本県宇土市)に本拠を定め、肥後半国24万石を支配したのである。
慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、行長は西軍に与して戦ったが敗北した。戦後、行長は捕らわれの身となり、石田三成、安国寺恵瓊らとともに六条河原で斬られたのである。処刑後、教会が行長の遺骸を引き取り、カトリック式で葬ったといわれている。
◎高山右近(1552?~1615)
右近は高山飛騨守の子として、天文21年(1552)に誕生した(生年は諸説あり)。永禄6年(1563)、父や家臣らとともにキリスト教に入信した。右近は豊臣秀吉に仕え、明石を領した。ところが、天正15年(1587)に秀吉が伴天連追放令を発布すると、運命は大きく変わった。
秀吉は棄教しない右近を改易したので、右近は小西行長に庇護された。その後、右近は前田利家を頼ったが、徳川家康の禁教令もあり、慶長19年(1614)にマニラ(フィリピン)に渡った。しかし、船での長旅が災いしたのか病気となり、間もなく亡くなったのである。