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意外! 池田の"さわやかイレブン"、実は12人いた?/センバツ・旋風の記憶[1974年]

楊順行スポーツライター
蔦文也監督(写真:岡沢克郎/アフロ)

 いまから50年前の1974年、センバツ。バックネットに直接ぶつかる大暴投から、大会が始まっている。投げたのは、池田(徳島)のエース・山本智久。開会式直後の第1試合、投球練習の第1球を、意図的に大暴投したのだ。

 池田といえば71年夏、初めて甲子園に出場し、春はこの年が初めてだった。率いるのは、蔦文也。のちに"山びこ打線"と呼ばれる強力打線を育て、82年夏、83年春と連覇した名物監督だ。無類の酒好き、独特の風貌。だが、少々のことには動じそうもないその蔦さんも、教え子のこの行動にはさすがにビックリしたはずだ。

「僕ら田舎の子どもやき、大舞台ではどうせ緊張する。それなら、試合の前に出しちゃろう、と」

 当時のことを、当の本人・山本さんに聞いたことがあるのだが、「田舎の子」というわりには、やることが大胆だ。

 この大会の池田は、開幕試合を含めて接戦を次々と勝ち上がり、準優勝を飾ることになる。ベンチ入りメンバーは、わずか11人。決勝で対戦したのは地元・兵庫の報徳学園で、部員数は出場校中最多の59人、ピッチャーだけでも、池田の全部員と同じ11人いた。

 だが、山の子たちの一歩も引かない試合ぶりは共感を呼び、「ウチが地元なのに、球場全体が池田の味方のよう。やりにくいわなあ」(当時の報徳学園監督・福島敦彦氏)というほど、人気を独占する。そう、オールドファンには懐かしい「さわやかイレブン」だ。この年の夏、高校野球では金属バットが採用されるから、木のバットによる最後の甲子園大会だった。

 見る者にとっては、イレブンの快進撃はまるで想定外の展開だったが、

「そこそこ自信はあったですよ。秋の大会は22試合に投げて10完封ですし、いつも練習から実戦的なことをしていましたから」

 と山本さんは振り返る。イレブンは文字通り、故郷・池田町(現三好市)のヒーローになった。山本さんはじめ、大半が池田中か、近隣の出身者。○○さんちの●●君というご近所ばかりで、「出発するときは後援会長と、校長くらいしか見送りがいなかったのに、帰ったらもう大変だった」(山本さん)と、山あいの町は盆と正月が一緒に来たような騒ぎだった。

 ただ、山本さんは、なにがなんでも甲子園に、というわけじゃなかった。自分が通える普通科の高校がたまたま池田であり、「中学時代の最後の試合、体調が悪くて満足に試合に出られなかった悔しさで」高校でも野球を続けたにすぎない。その池田中時代、蔦監督も、高校の練習が試験休みのときなど、練習に顔を見せた。練習後は、飲み友だちである中学の監督とそのまま夜の街に消えるのだ。

 だから高校進学前から、蔦監督の顔はよく知っていた。ただ、いざ池田の野球部に入ると、練習のきつさに驚いた。小石だらけの吉野川の川原でノックに飛びつき、捕れないのが当たり前なのに罵声を浴びる。冬場には、帽子のひさしに雪が凍り付いても打撃練習をやめない。全員でグラウンドを走るなら、スパイクの音がきちっとそろうまでは何十周走っても終わらない。山本さんはいう。

「僕らが入ったころは、ブン(蔦監督)も50歳前のバリバリです。練習が厳しいから、新入部員は10人以上いたとしても、次々にやめていって残るのは4、5人。だから、2学年で11人なら多いほうじゃなかったかな。11人しかいないのに、3カ所バッティングをやるんですよ。バッテリーとバッターで9人で、2人しか残らない。ときには、ブンもバッティングピッチャーをやりました。元プロの投手ですから、どれだけ効率的できつかったか(笑)」

外野に迷い込んだ犬にノックの打球を……

 当時の報道を見ると、「大事な選手にケガでもされたら大変」とプロテクターをつけてノックを受けた、とあるが、山本さんの記憶によるとそんな配慮ではなく、至近距離からの個人ノックで、単に恐怖感を取り除くだけの工夫だった。その蔦監督のノック、いまも伝説になっているほどのうまさである。捕れるかどうか憎らしいほどギリギリに、計ったように打つ。名手すら苦手とするキャッチャーフライだって、思いのままに打ち分けた。ときには、外野に迷い込んだ犬を追い払うため、打球を直撃させたこともある。

 酒好きもナミじゃなかった。ビールは1ケースくらい平気だし、赤い顔をして練習に来ることもめずらしくない。練習試合で高知に行けば、終わったあと、「わしゃ飲んで帰るけん、先に帰っとれ」と選手だけを鉄道に乗せた。ピッチャー出身ながら、技術指導はなし。とにかく球数を放れ、疲れたときにこそ理想的なフォームになるから、それを体で覚えろ。大まかである。半面、山びこ打線には豪快なイメージがあるが、74年のセンバツでは、函館有斗(現函館大有斗・北海道)との初戦をホームスチールで勝っているように、野球は緻密だった。むろん打撃練習は大好きだが、バント練習も重視した。

「バットを振らず、当てるだけのバントができなければ、バットを振っても当たるわけがない、と。また、練習試合でサインを間違うと、いったん試合を止めてかんで含めるように話す。甲子園のホームスチールも、練習試合で何度か経験があるから、おそらくみんな”やるな“と思った作戦でしょう。あとは打順によってサインの意味が違ったりね。スクイズも、大好きだった。ずっと徳島で勝てず、甲子園に行けなかったから、いろいろと細かいことを考えていたんだと思いますね」

 3点を取ればなんとかなった木製バットの時代。山びこ以前の池田は、バントに足をからめ、アウトと交換に塁をひとつずつ進めていく泥臭い野球だったのだ。この74年の決勝では、報徳学園が3点を奪い、3対1で初優勝を果たしている。その報徳・福島さんから聞いた逸話。

「池田が甲子園に来たときに泊まっていた網引旅館は、以前報徳のOBがやっていた関係で、蔦さんとは面識があったんです。甲子園に来たら飲み友だちで、実は決勝の前日も、2人で1時ころまで飲んでいたんです。いまやったら、フライデーされるな」

 そして、山本さんからもとびっきりのエピソードを聞いた。

「実はあの74年、センバツ出場が決まってからも、一人やめているんですよ」

 センバツ出場が決まってから退部するなんて、ちょっと常識では考えられず、それだけ練習がきつかったということだろう。ん? ちょっと待てよ……つまり"さわやかイレブン"は、もしかしたら"トウェルブ"だったかも、ということか。いやあ、おもしろい。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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