「障がい者への無理解は少しでも早くなくならないと」。映画『37セカンズ』に監督が込めた思い
脳性麻痺のひとりの女の子の目に映る世界を描いた映画『37セカンズ』。アメリカを拠点に活動するHIKARI監督の長編デビュー作となる本作は、いまどきの日本映画が真っ先に不安要素にして、変更しそうなポイントを、むしろ大きな力に変えてしまった作品といえるかもしれない。
主演には、その俳優の知名度や人気に頼ることをせず、一般公募で選んだ演技経験ない無名の女性、佳山明を起用。しかも、障がい者のヒロインを当事者である佳山自身が演じている。そして、テレビどころか、映画でもちょっと尻込みしそうな障がい者女性の性の問題について臆せず描く。
こうした監督の明確なヴィジョンと信念に基づく作品は、わたしたちのすぐそばで起きているのに気づくことのない、いわば見過ごされた世界の現実のひとつを生々しくこちらへと伝える。
生まれてくるとき、息をしていなかった37秒間で、身体に障がいを抱えてしまったユマが主人公
HIKARI監督は今回の物語の成り立ちをこう明かす。
「わたしが体験したいくつかのことがひとつの物語へと集約されていきました。ひとつは、19歳のときに友人が事故で脊椎損傷で半身不随となったときの経験。これが出発点といっていい。
そのあと、今回の作品にも出演くださっている熊篠慶彦さんと、彼を担当する介護福祉士で今回のトシ役のモデルにもなっている辻本敏也さんと出会い、ここで障がい者の性をめぐる問題を知ることになりました。
さらに今回、主演を務めてもらった佳山明さんとの出会いも大きかった。当初は、幼少期の交通事故で脊髄損傷を負った女性という設定でしたが、明さんと出会い、彼女と同じ脳性麻痺に変えました。明さんと彼女のお母さんとも対話を重ねて、そこで伺った話が物語のバックグラウンドとして少し反映されています。
あと、脳性麻痺のお子さんを持つお母さんたちにも何名かインタビューしてリサーチをしています。こうしたさまざまな要素が紡がれて、今回、ひとつの物語が生まれました」
主人公は、生まれてくるとき、息をしていなかった37秒間で、身体に障がいを抱えてしまったユマ。23歳の彼女は漫画家になることを夢見ているが、いまは少女コミックの人気漫画家、SAYAKAのゴーストライターに甘んじている。
実生活は母と二人暮らし。最近、母の過度な干渉に息苦しさを覚えている。そして、気になるのは父の存在。でも、詳しいことを母は教えてくれない。
そうした中、彼女はいままで知らなかった外の世界へと飛び出し、障がい者を中心にサービスを行うデリヘル嬢の舞らとの出会いを通し、性に目覚め、独立を意識し、自らの道を歩もうとする。
「これは多くの人がそうであるように、20代にもなると、親元から離れたい気持ちが芽生えてくる。それは誰もが一緒。やはり20代に入ると『このままだと自分は一生、親の庇護のもとで生きるのではないか』といったことを切実に考え始めるという話しはよくききました。一方で、親から離れたらできないことが出てくるし、不便なことも当然ながら生じる。だから、怖くてためらってしまう方もいる。
さらに別のケースをあげれば、主演の(佳山)明ちゃん自身は、中学校のときから、寮生活をスタートさせている。そして、そのまま自立生活をスタートさせている。こういう10代からすでに親元を離れて生活しているケースもあるわけです。
こうした話をきく中で、わたしが思ったのは、障がい者の自立といってもひとくくりにできないというか、もう十人十色で。ただ、自立のことを含め、人生のある節目で直面することは、身体が不自由でも健常でもあまりかわらない。もちろん置かれた状況で事の重大さは変わってくる。でも、直面すること自体に何ら変わりはない。そのことを大切に描くというか。
ユマは脳性麻痺で車いす生活を送っている。一方で、23歳のまだ若く、未来のある女性でもある。そのどちらも等しく描くことで、レッテルなしのひとりの人間の世界としてみえてくるのではないかなと。さらにそこから、現在の日本の社会状況もみえてくれればいい。そうすることで、自分とは関係のまったくない話ではなくなるのでは。自分にも関わりのあると感じてもらえる物語にしたいと思ったんです」
そこに障がいがあるかないかはあまり関係ない
その物語は、ユマからみえる社会であり世界が映し出される。一方で、ユマに関わる人々を通して、障がい者をとりまく環境や社会の在り方も見えてくる。
たとえば神野三鈴が母の情愛を前面に出した演技で、深い印象を残すユマの母親からは、そうした子どもをもつ母の苦悩が浮かびあがる一方で、必要以上に子どもを干渉する「毒親」と呼ばれそうないまどきの母親像も垣間見えてくる。
「先述した通り、障がいのあるお子さんを持つお母さんに何名かインタビューさせていただいたんですけど、特に出生時に障がいを抱えてしまったお子さんを持った皆さんが共通しているのは『自分のせい』とどこかで思われているところ。自分のせいで『この子はこんなことに』と思われている方が多い。だから、自分がこの子を『どうにかしてあげないと』という考えになりがち。
ただ、この『自分がどうにかしてあげないと』という意識は、ある意味、障がいのある子を抱えているか、いないかに関わらないといいますか。ようは、親が子どもをなかなか手放すことができない。
一方、子どもは子どもで障がいがあるないにかかわらず、親の干渉にうんざりすることはあるし、反発を抱くこともある。親元から離れて自由になりたい気持ちは必ずしも生まれてくる。障がいがあるなしに関係なく生まれる。
ですから、ユマと彼女の母をみていると、親と子どものほどよい距離のようなことを考えるのではないでしょうか。それで、そこに障がいがあるかないかはあまり関係ないと。たぶん、障がいをもつお子さんを抱える親御さんは、自分の子どもはほかの子と同じなんだと。ある年齢になったらひとり立ちすることも考えないといけないと感じてもらえるはず。逆にほかの親御さんは、障がいがある子も自分の子どもと同じようなことを考えるんだなと感じてもらえるんじゃないかなと思うんですよね」
『障がいってなに?』って思うんです
このようにユマと彼女の周囲の人間から、身近なところにありながら、なかなかみえてこない障がい者の世界と、日本社会の現在が重なり合う。そのとき、初めてお互いみえてくることがある。
「ユマに限らず、この作品に登場する人物って、けっこうどの人物もある意味、障がいをもっているようにみえてくる。厳密に言うと違うかもしれないけど、みんな心に、目には見えない病を抱えている。たとえばユマのお母さんは、ユマの世話をしているようにみえて、どこか娘に依存して自分という人間を保っているところがある。介護福祉士の俊哉くんも人にいえない孤独を抱えている。これもまた、他人には理解できない、心の障がいといってもいいのではないかなと。
身体的には健常だけど、お母さんだって、俊哉くんだって心の障がいを抱えているんじゃないか。
その目線に立ったとき、障がい者はかわいそうとか、逆に、相模原障がい者施設殺傷事件のようなことは起きないはず。そんな事はあってはいけないことですよね。そういうことを作品を通して、これまで障害者の人々に対して偏見を持って生きてきた人々に問いかけたかった。またこれはユマというひとりの脳性麻痺の女の子のストーリーですけど、誰にでも関わりのあることなんですよと、訴えかけたい気持ちはありました」
無理解や偏見は少しでも早くなくならないと
この監督の秘かなメッセージを体現するかのように、自分の殻から外へ飛び出たユマは、他者と関わることで自己を確立していくとともに彼女自身がどこか接着剤のような役割を果たして、人と人とを結びつけていく。
「そう感じてもらえたらうれしいです。
先日、『37セカンズ』のユマ役のオーディションを受けにきた5名の女性のそれぞれの生き方を追ったドキュメンタリー番組がNHKで放送されたんです。
彼女たちをみていると、ほんとにね、『障がいってなに?』って思うんです。彼女たちは、『わたしたちこんなにつらいんです』とか、『お母さんが自分のこと不憫と泣いてつらい』とか、自分の窮状を訴えるようなところがない。
ほんとうはそう叫びたいかもしれない、だけど、『体が不自由になったから学べたこともすごくいっぱいある』とか、『わたし、車いすに乗っているけどなんでもできる』とか、みんな前を向いている。彼女たち、バリアフリー化といった街の整備や、自分たちに対する世間一般のネガティブなイメージが変わったら、健常者と同じようなことができると訴えている。たとえば自然分娩での子どもの出産を実現している女性もいる。
こういうことがどんどん発信されて、彼女たちの存在を知る人がどんどん増えていったら、健常者と障がい者の接点ができるどころか、接点自体がなくなって、「ふつう」のことになると思うんですよね。本当に、1日も早くそうなってほしい。
わたしの車椅子ユーザーの友人たち曰く、車いすに乗っていると、ほとんどのタクシーに乗車を断られると。特に雨の日は誰も止まってくれない。それで、乗せてくれたらくれたで、たとえばブランドもののバックとか持ってたりすると、『俺らの税金で、お前の生活代を払ってやっているのに、そんなブランドもののバッグを持ってるってどういうことだ』といった嫌味をいわれることが珍しくないそう。
先ごろ、首相が『桜を見る会』の名簿破棄を『障がい者雇用の職員が担当した』といって、あたかもその方の責任にしたことで非難を浴びました。ああやって、日本の政府が、障がい者に責任を転嫁したような発言をするなんて、まったくもって許せない。こういう発言が障がい者に対しての偏見や差別を助長する。なぜ、明確にしたほうがいいことは個人情報として明かさないのに、この件に関しては『障がい者雇用の職員』と人物を特定して明かすのか。これは国民として、子どもも大人も皆しっかり受け止めなくてはならない、すごく重要な事だとわたしは思います。
こういう無理解や偏見は少しでも早くなくならないと、日本人の道徳はなくなり、市民の考え方はどんどん政府に操られていく」
そうした視点でみていくと、権力になびき、弱い立場にいる人間が袋叩きにあうような現在の日本社会が浮かび上がるストーリーでもある。
「ほんとうに、それはありますよね。現在の日本政府の横暴さは目に余ると思いますけど、そこには怒りの矛先がいかない。
一方で、芸能人のスキャンダルとなると、世の中から抹殺するぐらいの勢いでバッシングされ続ける。
『アメリカ在住の貴女になにがわかる』といわれそうですが、日本から離れているからこそ客観的にみえることがいっぱいあるんですよ。変な話、アメリカにいるから日本人よりも日本人っぽいというか。離れているから、すごく日本を愛する心が育まれた気がします。
海外で暮らすと、ほんとうに日本人は優しいと思うし、こんなに安全でこんなにきれいな街は世界中回ってもそうないと思う。財布を落として返ってくることなんて、ほとんどないですよ(笑)。
でも、社会が世界に開かれているかというと、そうでもない。障がいに限ったことではなくて、いま、日本の社会にいままであったけど、表に出てこなかったことが少しづつ露呈してきている。たとえばDVだったり、児童虐待だったり、世間が目を伏せてきたというか。目を向けてこなったことがすこしづつ明らかになってきてはいる。ただ、日本は海外に比べると、まだまだだと思います。
そこにしっかりと目を向けないといけないと思うんです」
最初から車椅子ユーザーの方に演じてほしいと思っていました
そうした社会に根差した映画を作っていきたいという。
「どうせ自分が映画を作るなら、リメイクや人気漫画の実写化といった、なにか日本の枠に収まったただの娯楽映画を作るのは、どちらかというと私自身あまり興味がないかもしれません。たとえばリメイクでも、社会について少し考えるきっかけになるというか。社会で見落としがちなことに目を向けて、それについて考える機会になるような作品を発表したい。その中で、私のメッセージをちゃんと受け止めてもらうには、エンタメという素材があっても、それはそれでいい」
いまの日本のメジャー映画の対極をいくような姿勢はキャスティングに表れている。主演には、オーディションで実際に脳性麻痺の患者である佳山明を起用した。これに迷いはなかったという。
「最初から車椅子ユーザーの方に演じてほしいと思っていました。『それでは映画が売れないからダメ』という大手の配給会社からの意見もいただきましたし、企画が成立するのは難しいかもともいわれました。でも、まったくわたし自身の心は揺らがなかったです。
当事者に演じてもらわないと、誰の心にも響かない。この映画を作っても意味がないと思っていました」
オーディションには100名近くの応募があったという。
「裸のシーン、性的なシーンがあるということで、『やはり無理です』という方は数名いらっしゃいましたけど、これだけ多くの女性が演技であり、なにか表現することに対して興味をもっていることはうれしかったですね」
その中で、佳山を選んだ理由をこう明かす。
「すごく、もうほんとに何も知らないピュアな女の子がいきなり目の前に現れたっていう感じが、すごく印象的だったのを覚えています。それをそのまま出してくれれば、ユマになるなと」
実際、作品は彼女の存在から目が離せなくなる。
「ほんとうにすばらしい演技を披露してくれました。たぶん、共演者のみなさんもなにか刺激を受けることがあった気がします。
明ちゃんでありユマという存在は、いろいろな人にさまざまなメッセージを届けると思います。身体に不自由があっても生きてる限りなにかチャンスがあることを彼女の姿に感じてもらえたらうれしい。彼女の演技をひとりでも多くの人が目にしてくれることを願います」
昨年のベルリン国際映画祭のパノラマ部門で観客賞と国際アートシネマ連盟賞をW受賞したほか、トロント国際映画祭など海外の名だたる映画祭で上映され、世界で大きな評価を得た。ただ、本来は日本が、日本人こそが目を向けなければいけない現実が多々ここには描かれている。23歳、職業、ゴーストライター、脳性麻痺の女の子、ユマ=佳山明に出会ってほしい。
全国順次公開中
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