1500勝達成の藤沢和雄が語った外国から連れて来たある馬とのエピソード
JRA通算1500勝は天文学的な数字
藤沢和雄調教師がまた一つ金字塔を打ち立てた。
6月13日の函館競馬場、第10レースの駒ケ岳特別を管理するシークレットアイズが優勝。これが藤沢にとってJRA通算1500勝目となる勝利。尾形藤吉元調教師以来、史上2人目となる快挙だが、厩舎の馬房数が限られたのにレースの出走頭数は増えた現在では昔よりも達成するのは難しい記録。今回のメモリアル勝利を知ったある調教師は「考えられない数字」と口にしたがこれは大袈裟ではない。調教師で年間50勝すればリーディングトップを争えるが、毎年それだけ勝っても30年かかるのが1500勝という数字だ。ジョッキー部門ではご存知・武豊が4200勝に届こうかというくらい勝っているが、これに匹敵する天文学的な値と言って良いだろう。
フランス出身で競馬発祥の地であるヨーロッパの競馬を知るクリストフ・ルメールは「フジサワ先生の馬に対する知識や対処の方法はヨーロッパの一流調教師と比べても負けていない」と語るが、これも決して誇張したそれではないだろう。
数々の記録とイギリスで培った信念
1951年9月22日生まれで現在68歳の藤沢。過去には98年の年度代表馬タイキシャトルや2002〜03年と連続で同賞を獲得したシンボリクリスエス、更に翌04年に天皇賞(秋)、ジャパンC、有馬記念をいずれも優勝して年度代表馬に選ばれたゼンノロブロイなど、数多くの名馬を育ててきた。
もっとも藤沢が築き上げてきた功績は単に数字や名馬を残した事にとどまらない。最初に日本の競馬界に入った時、藤沢には何もかもが不思議であり衝撃だったという。というのも彼はそれより前にイギリスのニューマーケットで馬と共に4年間過ごした経験があったから。イギリスのやり方が当たり前と思っていた後の伯楽は日本のやり方に時に目を剥いたのだ。時系列としてはかなり飛ぶが、管理馬のスピルバーグをイギリスに遠征させた際、ニューマーケットの丘を藤沢と2人で歩いた事がある。その時、彼は口にした。
「今回も改めて感じたけど、こちらでは何よりも馬が優先だね。これは私が若い頃、ここで4年間過ごした時と何も変わっていない。人がハッピーに働く事で馬もハッピーになる。そういう姿勢が当たり前なんだよね。日本で働き出した時は人間の都合で肝心の馬がないがしろにされているのを幾度となく目にして驚いたもんだよ」
だから自分が調教師になった後は様々な改革をもたらした。現在では当たり前になっている集団調教や馬なり調教も彼が取り入れた。最初の頃、集団調教をすれば先輩調教師から「邪魔だ」と言われた。馬なり調教をすれば自分の厩舎のスタッフでさえ「こんなので仕上がるのか?」と噛みついてくる事もあった。しかし、イギリスで成果を目の当たりにしてきた彼は信念を曲げなかった。
こんな事もあった。例えばシンコウラブリイはひたすらマイル路線を走らせ、引退レースでマイルチャンピオンシップ(G1)を勝たせた。最優秀2歳牡馬(当時の数え方では3歳)に選ばれたバブルガムフェローを3歳(同4歳)の秋には菊花賞へは向かわさず天皇賞(秋)に果敢に挑戦。勝利させた。馬の個体を優先して適した距離を突き進ませるのは現在でこそ当たり前だが、当時としては珍しかった。先述のタイキシャトルが年度代表馬に選定されたのは“マイル路線しか走らなかった馬としては史上初の快挙”。そんな事からも藤沢が第一人者だったのが良く分かる。
外国から連れて来たある馬とのエピソード
このようにして少しずつ結果が出ると、周囲の彼を見る目も変わってきた。そしていつの間にか押しも押されもしないトップトレーナーとなった。トップに立っても尚「馬優先」という信念を曲げなかったからこそ、その座を守り続けこれだけの勝ち星を積み重ねられたのだろう。
そんな藤沢が昔、面白い事を言ったのを良く覚えている。それは今から26年前の1994年、ある1頭の管理馬が引退した際の話だ。「アイルランドで2頭の若駒を見てね」という言葉で藤沢の話は始まった。
「どちらか1頭を日本へ連れて行き、私が管理するという話になったんだ。どちらにするかは私が決めて良いと言われてね」
こうして連れて帰った馬は初出走で9着に大敗した。しかし2戦目で3着と変わり身を見せると3戦目では見事に勝ち上がった。
「こちらの方が走ると思って選んだ馬なので結果が出て良かった」
そう感じたと言う。この馬はビーチハウスという名だった。オールドファンなら覚えておられるだろう。結局5勝を挙げ、札幌記念やアルゼンチン共和国杯などの重賞にも名を連ねるほど出世した。
一方、藤沢が手を挙げなかったもう1頭の方はアイルランドで競走馬になっていた。
「選択は間違っていなかったようで、成績を見ると大した事はありませんでした。オーナーに対しても面目が立ったと正直ホッとしました」
そんなある時、アイルランドへ行く機会があり、その馬と久しぶりに対面した。そこで藤沢は衝撃を受けたと言う。
「成績は残せていなかったけど、馬は活き活きとしていました。ビーチハウスは確かに沢山勝てたけど、こちらの馬ほどハッピーな感じには見えなかった。これではダメだと思いました」
日本の競馬の良い点も沢山あるが、良くない意味で染まってしまったかと考え直す機会を与えてもらった出来事だったと続けた藤沢は更に言った。
「改めて馬の気持ちを第一に、最優先に考えてやっていかなければ、と思い直しました」
先述した通り、この話をしてくれたのはビーチハウスが引退した際、94年の事だった。翌95年から藤沢は10年連続でリーディング1位の座を邁進する。そしてここまでその座をつくこと実に14回。2017年にはレイデオロで日本ダービー(G1)を制し、この6月7日にはグランアレグリアで安田記念(G1)を制覇。そして冒頭に記した通り13日には通算1500勝の偉業を達成した。勲章の大きさも数字の多さもこのビーチハウスの逸話と無関係ではないだろう。残念ながら再来年の2月には定年で厩舎を畳まなければいけないが、それまであと約1年8か月。伯楽の馬優先主義がまだまだ伝説を作ってくれると願いたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)