[高校野球]名将にも、駆け出しの時代があった/明徳義塾・馬淵史郎監督の場合
あれから、33年がたった。明徳義塾・馬淵史郎監督が、「車ひとつ、手ぶらでたずねて」明徳の練習を手伝った日から、だ。
「いまでも覚えとるわ、1987年5月13日かな。明徳に来たら、"もう帰らんでええ、テレビも布団も練習のユニフォームもあるから、明日から練習を手伝ってくれ"といわれて、そのまま残ったんよ」
当時は、社会人・阿部企業の監督を辞めて故郷の愛媛に戻り、縁あって宅配便の運転手をしていた馬淵。明徳の監督・竹内茂夫に誘われて、練習の見学に出かけた。阿部企業の監督時代、明徳からも選手を採用していたから、義理を果たす意味もあった。まさかそのまま、明徳に居着くことになるとは……。どうも馬淵は、離れようとしたときに限って、野球の神に誘惑されるらしい。
ワシは漁師になりたかった
55年生まれの馬淵。生まれ育った八幡浜は、太平洋につながる宇和海に面し、四国一の規模の魚市場を擁する漁業基地だ。漁師になりたかったんよ、という馬淵に「ん?」と問い返すと、「中学を卒業して漁師になった同級生がな、1回遠洋に出て戻ってくると、たんまりカネを持っているんよ(笑)。こりゃ、ええなあと思ってね」。魚が大好きなのは知っているが、どこまで本気なのか……。それはともかく、愛媛育ちの野球少年は当然、松山商にあこがれた。なにしろ69年夏、三沢(青森)との決勝引き分け再試合を制しての優勝が鮮烈だ。だが親に反対され、「三日三晩泣いて」地元の三瓶高に進み、卒業後は拓大へ進む。ただし甲子園出場はないし、拓大はずっと東都の2部だから、エリート街道とはいいがたい。
卒業後は、伊予銀行に就職が決まりかけていたが、野球部の休部で一転、松山の鉄パイプの販売会社に。だがそこも「上司とソリが合わずに、上司をなぐって」1年半で退社すると、今度はプロパンガスの会社に就職した。野球とは、なんの関わりもない。そんな、80年。三瓶高時代の恩師・田内逸明氏が、復活する社会人野球の阿部企業の監督に就任するため、馬淵をマネジャー兼コーチとして強く誘った。二度、三度と固辞したが、口説かれて「では1、2年の基礎づくりだけ」と引き受けた。ところが82年1月に、その田内氏が急逝。成り行き上、チーム最年長の馬淵が監督を引き受けるしかない。26歳になっていた。ワシの野球人生は波瀾万丈、と馬淵は振り返る。
「本当は松山に帰りたかったけど、その当時は自分が声をかけた選手ばかりで、その本人がケツまくるんか、と会社にいわれてね。じゃあ1年だけ残るから、その間に後任の監督を探してください……いうてたのに、結局それから5年近く監督をやったね」
警備会社・阿部企業の練習環境は、同じ社会人野球とはいえ、大企業に比べたらかわいいものだ。選手は、夕方の5時から夜通しの14時間労働。練習は午前9時から2、3時間がせいぜいで、専用グラウンドもなく、練習場所を求めてバスで転々とする日々。選手は、大企業から声のかからなかった雑草ばかり。企業というより、クラブチームに近かった。その上、阿部企業のある兵庫県には、強豪がわんさといる。「けたぐりでもネコだましでもやらんと」(馬淵)勝負になりはしない。阿部企業野球部復活の1期生で、その後明徳の野球部長を長く務めた宮岡清治によると、
「当時は、監督が一番つらい仕事をしていたからね。上がしんどいことをしたら、下は無言でついていく」
たとえば警備会社でもっともつらいといわれる、冬の雨の凍える夜中、道路工事の交通整理。それを黙々とこなす馬淵の姿を見れば、選手も練習で手を抜くわけにはいかない。さらに地道な選手勧誘も徐々に実って、86年には都市対抗本大会に出場してベスト8に。秋の日本選手権でも準優勝を飾ると、それを置き土産に「もう格好はついたやろ。社長があれこれ口を出してくるのも気に食わん」と、あっさりと監督職を退いた。それにしても……ようやく結果を出したのに、監督の座を投げ出すとは。
「ワシはね、高校時代から"コト起こしの史郎“いわれてたんよ」
と馬淵。気に入らなければ、結果的にやっかいを背負うとしても、事なかれではすまさないのだ。
コト起こしの史郎
そして……明徳に居着いてみると、どっちが社会人か、というほど環境が違った。専用グラウンドと寮があり、高知県内にとどまらず、おもに西日本各地から優秀な素材が集まっているのだ。コーチを経て、90年8月に監督に就任した馬淵は91、92年と連続して夏の甲子園に出場。社会人時代と違い、けたぐりもネコだましも必要ない。勝つのは簡単じゃ……だが92年の夏、冷水をぶっかけられた。星稜(石川)の松井秀喜に対する、5打席連続敬遠である。結果は明徳が3対2で勝利したが、ゴジラのホームラン見たさに詰めかけた観衆が、フィールドにコップ、メガホンなどを投げ込み、試合が中断する前代未聞の騒ぎとなった。コト起こし、である。
「あんな騒動になるとわかっていたら、敬遠はしなかったよ」
と苦笑する馬淵の野球観は、確率重視だ。たとえばヒットエンドランにしても、あらゆる状況、情報を分析し、成功する確率が高いと判断したカウントでサインを出す。勝つためには、当然だ。選択を迫られる指揮官が、もしそこで間違ったら、全員が失敗する。松井の敬遠も、勝つための確率を逆算すれば、必然の策。馬淵はいう。
「汚い? それなら、バスターバントもピックオフプレーも汚いんか。そういう駆け引きがあるからこそ、力のないものが勝つこともある。力通りに決まるんなら、試合前のフリー打撃とシートノックで勝負を決めたらええ」
そう。番付が上の相手に、けたぐりで勝っても、だれも責めはしない。だが松井の5敬遠は思いもかけぬ物議を醸し、批判を受けた馬淵は、一度辞表を出した。慰留されはしたものの、以後丸3年、甲子園から遠ざかったときも、二度目の辞表を出した。
「松井後遺症? ひきずってないんやけどね、ワシは。でも3年も甲子園に出られんときには、辞めようかと思って辞表を校長に持っていったんよ。正月返上までして勝てんのは、オレに力がないからや。ただ欲をいえば、もう1回甲子園に出るまでやらしてくれ、と。ワシはひきずってないんやけど、松井の敬遠でつぶれたといわれるのもつまらんからね」
またも慰留され、96年に春夏連続出場を果たしたのを皮切りに、明徳はすっかり甲子園の常連になった。松井5敬遠から10年後の2002年夏。明徳は、そして馬淵は、初めて全国の頂点に立つことになる。そのときの優勝インタビューがいい。
「いま、なにをしたいですか?」
「漁師町の生まれじゃからね、魚にはうるさいんよ。長いこと大阪にいたもんで、早く高知に帰ってうまいカツオを食いたいわ」
※別のサイトでは、帝京・前田三夫監督https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/hs_other/2020/05/08/___split_22/をはじめ、日大三・小倉全由監督、横浜・渡辺元智元監督もとりあげています。そちらも、ぜひ。